西漢時代194 宣帝(十八) 車師撤兵 前64年(1)

今回は西漢宣帝元康二年です。二回に分けます。
 
西漢宣帝元康二年
丁巳 前64
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、宣帝が詔を発しました「『書尚書・康誥)』にはこうある『文王が刑罰を作り、(大悪に対しては)刑を用いて赦さなかった(文王作罰,刑茲無赦)。』今、吏は身を修めて法を奉じているが、まだ朕の意に沿っていない。朕は甚だ憐憫しているので、天下に大赦し、士大夫と共に厲精更始する(精を出して新しく始める)。」
 
西周文王は刑を設けて大悪を赦しませんでした。しかし宣帝は大赦しています。
漢書』の注に二つの解釈があります。一つは李斐の説で、「官吏が身を修めて法を奉じているのに宣帝の意に沿っていないので、天下に大赦した」としています。宣帝は寛大な政治を目指しているのに、官吏がまだ厳しい法を用いているから大赦した、という意味です。
もう一つは顔師古の説で、李斐を否定してこう言っています「文王は刑罰を作って法を犯した者を全て赦さなかった。しかし宣帝は憐れみを抱き、官吏が身を修めて法を奉じているのに、宣帝の意に沿えないことを憐れんで、(官吏の罪を問わず)特別に大赦して官吏と共にやり直すことにした。」
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
宣帝が皇后を立てようとしました。
当時、館陶主(館陶公主劉施。『漢書雋疏于薛平彭伝(巻七十一)』によると、劉施は宣帝の長女です)の母華倢伃と淮陽憲王劉欽の母張倢伃、楚孝王劉囂の母衛倢伃が宣帝に寵愛されていました。
宣帝は張倢伃を皇后に立てようとします。
しかし久しくして、かつて霍氏が皇太子(劉奭許皇后の子)を害そうとしたことを教訓にし、後宮で子がおらず、謹み深くて慎重な者を選ぶことにしました。
 
二月乙丑(二十六日)、長陵の人王倢伃を皇后に立てました。
丞相以下郎従官まで、序列に応じて銭帛を下賜しました。
 
王皇后には母として太子を養わせました。
その父王奉光を邛成侯に封じます。『漢書外戚恩沢表』によると諡号は共侯です。
但し、王皇后は寵愛を得ることなく、宣帝に会う機会もほとんどありませんでした。
 
[] 『漢書帝紀からです。
三月、鳳皇(鳳凰)が降りて甘露が集まったため、天下の吏(官吏)に爵二級を、民に一級を下賜し、女子には百戸ごとに牛酒を与えました。
鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りのない老人)高年(老齢者)には帛を与えました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、宣帝が詔を発しました「獄とは万民の命であり(獄は万民の命に関わる)、暴を禁じて邪を止め、群生を養育するのが目的である。生者が怨まず、死者も恨まないようにできる者だけが文吏(法を執行する官吏)と呼ぶにふさわしい。しかし今はそうではない。法を用いたら、ある者は巧心を持ち、法を曲解して異なる見方を生み出し(析律貳端)、深浅(判決の軽重)が不平(不公平)で、辞を増やして非を飾り、このようにして罪を成させている(人々に罪を着せている)。上奏が真実ではないので上(皇帝)も知る由がない。これは朕の不明であり、吏の不称(職務を全うできていないこと)である。四方の黎民(万民)は何を仰げばいいのだ(何に頼ればいいのだ。原文「将何仰哉」)。二千石(地方の長官)はそれぞれ官属を観察し、このような者を用いてはならない。吏は平法(公平な法)に務めよ。一部の吏は勝手に傜役を興し、厨伝(飲食や伝舎)を飾って往来する使客(朝廷の使者)を満足させ、職権を越えて法に違えることで名誉を得ているが、これは薄冰(薄氷)を踏んで白日(太陽)が出るのを待つのと同じだ。どうして危険が無いだろう(豈不殆哉)
今、天下は疾疫の災を大いに被っており、朕は甚だ憐憫している。よって郡国において被災が甚大な者は、今年の租賦を出さないように命じる(租賦を免除する)。」
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
宣帝が言いました「古の天子の名は知るのが難しく避けるのが容易だった(難知而易諱)と聞いている。今、百姓の多くが上書して(文書を書いて)(皇帝の名)に触れるという罪を犯しており、朕はこれを甚だ憐れむ。よって諱を詢に改める。この令が出される前に諱に触れた者は全て赦す。」
 
古代は皇帝や身分が高い者の名に使われている漢字は、民間では使ってはならないという規則がありました。
宣帝は「劉病已」といい、「病」も「已」も日常的に使う文字なので、この二文字が忌避の対象になると人々の生活に影響を与えます。そこで宣帝は「病已」を「詢」に改めました。
 
[] 『漢書帝紀では本年冬に京兆尹趙広漢が罪を犯して要斬(腰斬)に処されていますが、前年の誤りです(前年参照)
 
[] 『資治通鑑』からです。
当時、車師の地で漢軍が屯田していました(宣帝地節三年67年参照)
匈奴の大臣は皆こう考えました「車師の地は肥美(肥沃)匈奴に近いから、漢に得させたら、漢は田を増やして穀物を蓄積させ、必ず人の国を害すだろう。争わないわけにはいかない。」
匈奴はしばしば兵を出して車師で屯田する漢軍を攻撃しました。
 
漢の鄭吉が渠犂の田卒屯田兵七千余人を率いて車師の漢軍を援けましたが、逆に匈奴に包囲されました。
鄭吉が朝廷に上書しました「車師は渠犂から千余里も離れており、漢兵で渠犂にいる者も少ないので、援けることができません。田卒を増やすことを請います。」
宣帝は後将軍趙充国等と討議し、匈奴の衰弱に乗じて右地匈奴西部)を攻撃しようとしました。匈奴に打撃を与えて西域を侵犯させなくするのが目的です。
しかし丞相魏相が上書して諫めました「臣が聞いたところでは、乱を平定して暴虐を誅す兵を『義兵』といい、兵が義であれば王になれます(兵義者王)。敵が自分に攻撃を加えたため、やむなく起こした兵を『応兵』といいます。兵が応ならば勝てます(兵応者勝)。些細なことで争恨し、憤怒を我慢できずに起こした兵を『忿兵(「忿」は憤怒の意味です)』といいます。兵が忿ならば敗れます(兵忿者敗)。人や土地、貨宝を利益とするために起こした兵を『貪兵』といいます。兵が貪ならば破れます(兵貪者破)。強大な国家に頼り、大勢の民人を誇り、敵に威を示したくて起こした兵を『驕兵』といいます。兵が驕なら滅びます(兵驕者滅)。この五者は人事だけでなく、天道でもあります。最近、匈奴は善意を抱き、漢民を得ても全て帰らせ、未だ辺境を侵すことがありませんでした。確かに車師で屯田を争いましたが、意中に至らすには足りません(考慮する必要はありません)。今、諸将軍が兵を起こしてその地に入ることを欲していると聞きましたが(『資治通鑑』胡三省注によると、丞相は中朝の会議に参加しません。大将軍、車騎将軍、前右将軍は全て中朝の官です)、臣は愚かなので、その兵の名が何なのかわかりません(「その兵は五兵のどれでしょうか。」または「出兵の名分は何でしょうか。」原文「此兵何名者也」)
今、辺郡は困乏し、父子が一緒に犬羊の裘を使い、草莱(雑草)の実を食べ、常に自存できないことを恐れているので、兵事によって(民を)動かすのは困難です。『軍事の後には必ず凶年が来る(軍旅之後,必有凶年)』と言います(『資治通鑑』胡三省注によると、『老子』の言葉です)。これは民が愁苦の気で陰陽の和を傷つけるということを言っているのです。出兵して勝ったとしても、後に憂いがあり、災害の変(異変)がここから生まれるのではないかと恐れます。今は郡国の守相の多くが正しく選抜されておらず、風俗はまだ薄くて(軽薄で)水旱の害が頻繁に起きています(水旱不時)。今年だけでも子弟が父兄を殺し、妻が夫を殺した者は二百二十二人を数えました。臣の愚見によるなら、これは小変(小さな異変。変事)ではありません。ところが左右の者(天子の近臣)はこれを憂いず、兵を発して遠夷における纖介の忿(些細な怒り)に報いようとしています。孔子が言った『私は季孫の憂(危険)が顓臾ではなく蕭牆の内にあることを恐れる(吾恐季孫之憂不在顓臾而在蕭牆之内也)』というものではありませんか。」
最後の孔子の言葉は『論語』にあります。季氏が魯の附庸国である顓臾を攻めようとした時、孔子が弟子の冉有と季路に語りました。「季氏は顓臾が子孫の憂いになることを防ぐために出兵しようとしているが、本当の危険は国外ではなく蕭牆(垣根)の中(国内)にあるのではないか」という意味です。
 
宣帝は魏相の諫言に納得しました。
長羅侯常恵に張掖と酒泉の騎兵を率いて車師に向かわせ、鄭吉とその吏士を迎えて渠犂に還らせました。
また、焉耆国にいた車師の元太子軍宿を王に立て、車師の国民を全て渠犂に住ませました。車師の故地は匈奴に譲ります。
鄭吉を衛司馬に任命し、鄯善以西の南道を監護させました。
 
 
 
次回に続きます。