西漢時代195 宣帝(十九) 宣帝の報恩 前64年(2)

今回は西漢宣帝元康二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
魏相は漢の故事や国家の便宜(利便)となる奏章を観るのが好きだったため、しばしば漢が興隆してから国家が行ってきた便宜となる政策や賢臣賈誼、鼂錯、董仲舒等の言葉を列挙し、宣帝に上奏して実行してきました。
魏相は掾史(属官)が郡国を考察しに行った時や、休告(休暇)で家に帰ってから官府に戻った時、いつも四方(全国)の異聞を報告させました。そのおかげで、各地の逆賊や風雨の災変について郡が報告しない内容があっても、魏相は全て宣帝に上奏できました。
魏相は御史大夫丙吉と一心になって輔政し、宣帝は二人とも尊重しました。
 
丙吉の為人は深厚(堅実寛厚)で功績を誇りませんでした。
皇曾孫(宣帝)が即位してからも、丙吉は前恩に関して一切口を開かなかったため、朝廷がその功績を明確に知ることはありませんでした。
ちょうど掖庭の宮婢(則は名。姓氏は不明です)が民夫に上書させました。民夫というのは後宮に入る前に嫁いだ民間の夫です。
宮婢則はかつて宣帝に対して阿保(保護養育)の功があったと述べました。
宣帝は章(上書)を掖庭令に下して考問(審問)させました。すると則は当時の使者(「使者」は任務を帯びた者という意味です)丙吉が事情を知っていると言います。
掖庭令は則を連れて御史府に行き、丙吉に会わせました。
丙吉は則を知っており、こう言いました「汝は皇曾孫を養いながら慎重ではなかった罪に坐し、督笞(罰としての笞刑)を受けた。汝のどこに功があるのだ。ただ渭城の胡組と淮陽の郭徵卿に恩があるだけだ。」
丙吉は胡組と郭徵卿が共に宣帝を養った労苦をそれぞれ報告しました。
宣帝は詔を発して胡組と郭徵卿を求めましたが、二人とも死んでいたため、子孫に厚い褒賞を与えました。
また、詔を発して則を宮婢の身分から庶人に戻し、銭十万を下賜しました。
宣帝は自ら則を接見して当時の状況を問い、始めて丙吉が大恩を施しながら今まで話さなかったことを知ります。
宣帝は丙吉の賢徳に大いに感動しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
宣帝は少府蕭望之が経学に精通しており、行動は慎重で(経明持重)、議論にも優れていたため、その能力は宰相の職を任せられると考えました。そこで詳しく政事の手腕を試してみたいと思い、再び左馮翊に任命しました。
しかし蕭望之は少府から左遷されたため、皇帝の意に沿わないことがあったのではないかと心配し、上書して病と称しました。
資治通鑑』胡三省注によると、少府は正九卿ですが、三輔の長官(京兆尹左馮翊右扶風)は秩禄が九卿と同等(禄秩視九卿)とされていたため、左遷に当たります。
 
蕭望之の状況を聞いた宣帝は侍中成都(『漢書蕭望之伝(巻七十八)』が「成都侯」としており、『資治通鑑』もそれに従っていますが、「都成侯」の誤りです。宣帝地節四年66年参照)金安上を派遣してこう諭しました「このように用いるのは全て改めて民を治めさせて考功するためだ(能力を調べるためだ)。君は以前、平原太守になったが日が浅かったから、再び三輔で試すことにした。何か(君を批難する意見)を聞いたわけではない(非有所聞也)。」
蕭望之はすぐに起き上がって政務を処理し始めました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、掖庭令張賀はしばしば弟の車騎将軍張安世の前で皇曾孫(宣帝)の材美(優れた能力)と徵怪(奇異な兆)を称えていました。
しかし張安世は「少主(昭帝)が帝位にいるのだから曾孫を称えるべきではない」と考えて、いつも張賀が皇曾孫を称賛するのを止めさせました。
宣帝が即位した時、張賀は既に死んでいました。
宣帝が張安世に言いました「掖庭令は平生(終生。生前)私を称賛し、将軍はそれを止めた。是である(将軍は正しいことをした)。」
 
宣帝は張賀の恩を思って恩徳侯に追封し、守冢(墓守)二百家を置こうとしました。
張賀には子がいましたが、早死したため、張安世の小男(幼い子。ここでは恐らく少子の意味です)張彭祖を養子にしていました。
張彭祖も幼い頃、宣帝と同席して学問を修めたため、宣帝は張彭祖を封侯したいと思い、まず関内侯の爵位を下賜しました。
張安世は張賀の追封を頑なに辞退し、守冢の戸数も減らして三十戸にするように請いました。しかし宣帝はこう言いました「私は掖庭令のためにこうするのだ。将軍のためではない。」
張安世はあきらめてこれ以上反対しなくなりました。
 
資治通鑑』にはありませんが、『漢書張湯伝』を見ると、宣帝は張安世に「私は掖庭令のためにこうするのだ。将軍のためではない」と言ったものの、結局は「故掖廷令張賀のために守冢三十家を置く」という詔を発しています。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
宣帝は心中で元昌邑王劉賀を心配しました。
そこで山陽太守張敞に璽書を下賜し(山陽郡は元昌邑国です)、盗賊の備えを慎重にさせ、往来する客を詳しく観察するように命じました。賜書を下の者に公開することは禁じます。
 
張敞は劉賀の起居行動について一つ一つ上奏し、帝位を廃されてからの反応を明確に書き記しました。
上奏文にはこうありました「故(元)昌邑王の為人は、色が青黒く(青黒色)、目が小さく(小目)、鼻の先が鋭くて低く(鼻末鋭卑)、髭や眉が薄く(少須眉)、体は大きいのに痿(恐らく筋肉が萎縮する病)を患い、歩くのが不便です(身体長大疾痿行歩不便)。臣敞はかつて話をして、彼を揺さぶることでその意思を観察しようとしました。そこで、悪鳥(梟。ふくろう。成長したら母を食べる不孝な鳥といわれていました)を引用し、『昌邑には梟が多いようです』と言って誘ってみました。故王はこれに応じて『そのとおりだ。以前、賀(私)が西の長安に至った時は全く梟がいなかった。しかし帰って来て東の済陽に至ったら、また梟の声を聞くようになった』と言いました。故王の衣服、言語、跪起(座ったり立ったりすること。振舞い)を観るに、白痴のようです(原文「清狂不恵」。「清狂」は狂っているようで狂っていないこと。「不恵」は白痴の意味です)。臣敞は以前こう言いました『哀王(劉賀の父劉髆)の歌舞の者・張脩等十人には子がいません。哀王園を留守していますが、彼女等を放って帰らせることを請います。』故王はこれを聞いて『中人(宮女)が園を守っているが、疾者(病を患った者)は治療させる必要がなく、互いに殺傷した者には法を用いる必要がなく、早く死なせたいと欲している。太守はなぜ解散させたいと思っているのだ』と言いました。彼は生まれつき乱亡に従うことを好み(天資喜由乱亡)、このように最後まで仁義を示すことがありませんでした。」
宣帝は劉賀を心配する必要はないと判断しました。
 
 
 
次回に続きます。