西漢時代199 宣帝(二十三) 王吉 前61年(1)

今回は西漢宣帝神爵元年です。五回に分けます。
 
西漢宣帝神爵元年
庚申 前61
 
漢書帝紀』の注によると、前年、神爵(神雀。瑞鳥)が長楽宮に降りて止まったため改元しました(三月に述べます)
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、宣帝が始めて甘泉を行幸し、泰畤で郊祭を行いました。
 
三月、宣帝が河東を行幸して后土を祀りました。
 
宣帝が詔を発しました「朕は宗廟を継承してから、戦戦栗栗として万事の統(系統。条理)を考慮してきたが、まだその理を照らすことができない。しかし元康四年(前年)に嘉穀玄稷(嘉禾と黒粟。瑞祥)が郡国に降り、神爵がしばしば集り(または「止まり」)、金芝九莖が函徳殿銅池の中に生え(『漢書帝紀』の注によると、銅池は銅で作った承霤です。承霤は屋根の下に置かれた雨だれを受ける容器です)、九真が奇獣を献上し(『漢書帝紀』の注によると、奇獣について二つの説があります。蘇林は「白象」としており、晋灼は「駒形(馬の形)、麟色で牛角があり、仁心をもって人を愛した(仁而愛人)」と解説しています。顔師古は「白象ではなく晋灼の説が正しい」としています)、南郡で白虎威鳳(『漢書帝紀』の注は「威儀がある鳳」としています)を捕獲して宝にした。朕は不明だが、珍物(瑞祥)によって震わされたので(動かされたので。しばしば瑞祥を得て感動したので)、身を正して心を清め(飭躬斎精)、百姓のために祈祷した。東に向かって大河を渡った時、天気は清静とし、神魚が河に舞った。万歳宮に行幸したら神爵が羽ばたき集まった(または「止まった」。『漢書帝紀』の注によると、河東郡汾陰県に万歳宮がありました)。朕は不徳のため(天子の責任を)任せられないことを懼れる。よって(元康)五年を神爵元年に改め、天下の勤事の吏に爵二級を、民に一級を、女子には百戸ごとに牛酒を下賜し、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)高年(老齢者)には帛を与える。振貸(救済)した物は回収する必要がなく、行幸して通った場所は田租を出さないことにする(田租を免じる)。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
宣帝は武帝の多くの故事(前例)に倣いました。斎祀の礼を謹んで行い、方士の言を採用して神祠を増設します。
資治通鑑』胡三省注に宣帝が方士の言に従って行ったことが紹介されています。
隨侯剣(古代の名剣)、宝玉、宝璧、周康宝鼎(恐らく西周康王が造った宝鼎)のために未央宮の中に四祠を建てました。
即墨で大室山を祀り、下密で三戸山を祀り、鴻門で天封苑火井を祀り(『漢書郊祀志下』によると、西河鴻門県に天封苑火井祠があり、地中から火が出ました)、歳星、辰星、太白、熒惑、南斗の祠を長安城の傍に建て、曲城で参山八神を祀り、臨で蓬山の石社と石鼓を祀り、で之罘山を祀り、不夜で成山を祀り、黄で莱山を祀り、成山で日を祀り、莱山で月を祀り、琅邪で四時(四季)を祀り、寿良で蚩尤を祀りました。
京師の近県では、鄠にある勞谷、五牀山、日月、五帝、仙人、玉女の祠や、雲陽にある径路神の祠で祭祀を行いました(『漢書郊祀志下』の注によると、径路神祠は本来、匈奴が祭祀を行っていました)。また、五龍山の仙人祠と黄帝、天神、帝原水の併せて四祠を膚施に建てました。
 
資治通鑑』本文に戻ります。
宣帝は益州に金馬と碧雞(鶏)の神がいると聞いたため、醮祭(壇を築いて行う祭祀)を行って招き、諫大夫を勤める蜀郡の人王褒に符節を持って神を求めさせました。
資治通鑑』胡三省注によると、越郡青蛉県禺同山に金馬と碧雞がいるといわれていました。
 
王褒は俊才として名が知られていたため、かつて宣帝に召されて『聖主得賢臣頌』を作るように命じられました。『聖主得賢臣頌』は別の場所で紹介します。

西漢時代 聖主得賢臣頌


京兆尹張敞が上書して宣帝を諫めました「明主がしばしば車馬の好(楽しみ)を忘れ、方士の虚言を退けて遠くし、帝王の術に心を遊ばせることを願います。そうすれば太平の興隆を望めるでしょう。」
宣帝はこの諫言に納得し、尚方待詔を全て解散させました。
尚方というのは「薬の処方を主管する」という意味です。ここでの「尚方待詔」は皇帝の命令を待って仙薬を処方する方士を指します。
 
趙広漢が死んでから、京兆尹を勤めた者は皆、職責を全うする能力がなく、張敞だけが趙広漢の跡を継ぐことができました。張敞の方略・耳目も趙広漢には及びませんでしたが、経術儒雅儒学の学識)によって不足を補いました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
宣帝は脩飾(宮殿の建築や装飾)を頻繁に行い、宮室、車服が昭帝時代よりも盛んになりました。
また、外戚の許氏、史氏、王氏が貴寵されました。
そこで諫大夫王吉(かつて昌邑王をしばしば諫言した人物です。昭帝元平元年74年参照)が上書しました「陛下は自ら聖質(神聖な資質)をもって万方を統括し、ただ世務を思って太平を興そうとしているので、詔書が下される度に、民は更生したかのように欣然(歓ぶ様子)としています。臣が伏してこれを思うに、至恩(民に恩をもたらすこと)ということができますが、まだ本務(政務の根本)とはいえません。善い政治を欲する主(欲治之主)は世出(いつの世にも現れること)するものではありません。公卿が幸いにもその時(明主の時代)に遭遇でき、(明主が)言を聴いて諫に従ったとしても、まだ万世の長策を建てることはできず、明主を三代(夏西周の隆世に挙げることもできません(明主を補佐して三代の隆世を築くこともできません)。今の務(主要な政務)は期会(一定期間内における政令の実施状況。または財物の出入状況)、簿書(財政の報告)、断獄(裁判)、聴訟(訴訟の処理)にあるだけで、これらは太平の基(基礎)ではありません。
臣が聞いたところでは、民とは弱くても勝てず、愚かでも欺けないものです(民が弱い存在でも民には勝てず、愚かな存在でも欺けないものです)。聖主は一人で深宮に住んで行動しており、それが的確なら天下が称賛し(得則天下称誦之)、間違っていたら天下が全てこれを議論します(失則天下咸言之)。だから左右の者を慎重に選び、用いる者を審択(よく調べて選ぶこと)しなければなりません。左右の者はそうすることで身を正し、用いられる者はそうすることで徳を宣揚します。これが(政務の)(基本)です。
孔子は『上(統治者)を安んじて民を治めるには、礼よりすぐれたものはない(安上治民,莫善於礼)』と言いましたが(『資治通鑑』胡三省注によると、『孝経』の言葉です)、これは空言(虚言)ではありません。王者がまだ(新しい)礼を制定していない時は、先王の礼で今の世に相応しい内容を引用するものです。臣は陛下が天心を継承し、大業を発展させ、公卿大臣から儒生に及ぶまで共に旧礼について語り、王制を明らかにし、一世の民を仁寿の域に登らせることを願います。それができたら、俗(風俗。世俗)がどうして成西周成王康王の時代)に及ばず、寿がどうして高宗に及ばないことがあるでしょう(高宗は殷王・武丁です。『資治通鑑』胡三省注によると、享国が百年に及びました)。当世の趨務(傾向。重要な事)を窺い見て、道に合わないことを謹んで條奏(一つ一つ述べること)するので、陛下の財択(採択)を願います。」
 
王吉はこう考えました「世俗では聘妻(妻を娶ること)、送女(娘を嫁がせること)の時に節(費用の制限)がないので、貧人は力が及ばず、その結果、子を挙げる(子を産む)ことができません。また、漢家(天子)に対して列侯は「尚公主」といい(列侯が天子の娘を娶ることを「尚公主」といい)、諸侯に対して国人は「承翁主」といいますが(国人が諸侯の娘を娶ることを「承翁主」といますが)、男が女に仕え、夫が婦人に屈し、陰陽の位(立場。地位)を逆転させているので(「尚」も「承」も相手に対する尊重を表します。妻の立場が夫の上になります)、これが原因で多くの女乱が起きています。
古は衣服、車馬において貴賎の章(規定)がありましたが、今は上下が僭差し(僭越して度を失い)、人人は自分で自分を制し(共通の節度が無くなり)、そのため財に貪婪になって利を追求し(貪財誅利)、死亡も畏れなくなりました。周が致治(大治。政治を修めて天下を太平にすること)できて、しかも刑罰を置いて用いることがなかったのは、冥冥としているうちに(まだ見えないうちに)邪を禁じ、芽生える前に悪を絶ったからです。」
 
王吉がまた言いました「舜と湯商王朝の成湯)は三公九卿の世(後代)を用いず、皋陶、伊尹を抜擢したので、不仁の者が遠ざかりました。今は俗吏が自分の子弟を任官できるようにしており(『資治通鑑』胡三省注によると、官吏の子弟は父兄のおかげで郎に任命されます)、彼等の多くが驕驁(驕慢放縦)で、古今に通じていないので、民に対して益がありません。よって明選(公開して選ぶこと)して賢才を求め、任子の令(父兄が子弟を任官できる制度)を除くべきです。外家外戚や故人(旧知)に対しては財によって厚く遇するのは構いませんが、高位に居させるべきではありません。
また、角抵(格闘技。遊戯)を去り、楽府を減らし、尚方(皇帝の器物を管理する官署)を省き、天下に倹約を明示するべきです。古の工(匠)は琱瑑(細かく彫刻された模様、飾り)を造らず、商(商人)は侈靡(奢侈贅沢な物)を流通させませんでした。これは古の工商だけが賢明だったからではなく、政教が彼等にそうさせたのです。」
 
宣帝は王吉の言を迂闊(実際の役に立たないこと)だと判断し、特に重視しませんでした。
王吉は病と称して辞職し、故郷に帰りました。
漢書王貢両龔鮑伝(巻七十二)』によると、王吉は琅邪の人です。元帝初元元年(前48年)元帝に招かれますが、道中で病死します。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代200 宣帝(二十四) 趙充国 前61年(2)