西漢時代 聖主得賢臣頌

西漢宣帝神爵元年(前61年)に王褒の『聖主得賢臣頌』に触れました。

西漢時代199 宣帝(二十三) 王吉 前61年(1)

 
漢書厳朱吾丘主父徐厳終王賈伝下(巻六十四下)』に全文が収録されていますが、ここでは『資治通鑑』から簡略された内容を紹介します。
 
王褒は『聖主得賢臣頌』の中でこう言いました「賢者とは国家の器用(道具)です。賢者を任用すれば、取捨が省かれて(事務の処理が簡易になって)功績が広く施されます(則趨舍省而功施普)。器用が利(便利。鋭利)なら使う力が少なくても效(効果。成果)が多くなります。だから工人が鈍器を用いたら、筋を労して骨を苦しめ、終日辛苦しなければなりませんが(終日矻矻。「矻矻」は労苦、辛苦が極まる様子です)、巧(精巧)に至れば干将(呉の宝剣)を冶鋳(鋳造)でき、離婁黄帝時代の視力が優れていた者)に督縄(測量)させて公輸(魯般。古代の名匠)に削墨(木材に墨の線を引いて切ること)させればたとえ五層(五階)の崇台(高台)で延袤(面積)が百丈あっても乱れることはありません。これは工(工匠)と用(道具)の関係が適切だからです(工用相得)
庸人(凡人)が駑馬を御したら、馬の口を傷つけるほど手綱を引いたり(傷吻)、鞭が壊れるほど馬を打っても(敝策)、馬を進めることができません。しかし齧膝(良馬。『資治通鑑』胡三省注によると、良馬は頭が低くて口が膝に至ったため、「齧膝」と呼ばれました)を御して、乗旦(名馬の名)に乗り(駕齧膝驂乗旦)、王良(伯楽。馬を鑑定する名人。『資治通鑑』胡三省注によると、郵無恤、郵良、劉無止ともいいます)が靶(手綱)をとり、韓哀(韓哀侯。御車が得意だったようです)に附輿(御車)させれば、八極(八方)を周流(周遊)して万里を一息とします(一息で万里を駆けます)。なぜそれほど遼遠な地に行けるのでしょうか。人と馬の関係が適切だからです(人馬相得)
絺綌(葛布の服)を着て涼しい者は盛暑の鬱燠(熱気。蒸し暑いこと)に苦しまず、貂狐を被って暖かい者は至寒(極寒)の悽愴(寒冷)を憂いることがありません。なぜでしょうか。具(道具)があって容易に防備できるからです。
賢人や君子も聖王が海内を容易にする(治めやすくする)ための存在です。昔、周公は自ら吐捉の労(賢人が訪ねて来たら食事中でも口に入れた物を吐き出し、髪を洗っている時でも髪を束ねて出迎えること)をなしたので、圉空(監獄が空になること。泰平を表します)の隆(隆盛)がありました。斉桓桓公は庭燎の礼(庭に灯火を置いて夜でも賢人の訪問を受け入れること)を設けたので、匡合(天下を正して諸侯を糾合すること。覇業を指します)の功がありました。このように観ると、人の君となる者は賢才を求めることに勤め、そのおかげで人を得て安逸になるのです(勤於求賢而逸於得人)

人臣もまた同じです。昔、賢者が(主に)遭遇できなかった時は、事を図って策を練っても(図事揆策)(主)がその謀を用いず、意見を述べて真摯であっても(陳見悃誠)上がそれを信用せず、進仕(仕官)しても効を施すことができず(能力を発揮できず)、斥逐されたとしても本人には愆(罪)がありませんでした(罪がなくても放逐されました)。だから伊尹は鼎俎に勤め(料理人になり)、太公呂尚は鼓刀に困し(牛の屠殺で生計を立て)百里百里奚)は自鬻し(「自鬻」は自分を売ることです。百里奚は五羊の皮で秦国に買われました)、甯子(甯戚。斉桓公の賢臣)は飯牛し(牛を養い)、これらの患(苦難)を経験しました。しかし後に明君聖主に遭遇すると、運籌(計策)が上(君主)の意に合い、諫諍(諫言)したら全て聴き入れられ、進退においてその忠を貫徹することができ、職を任せられてその術を行うことができ、剖符(封爵)錫壤(土地の下賜)されて祖考(祖先)に光を添えることができました。このようであるので、世には必ず先に聖知の君があり、その後、賢明の臣が現れるのです。虎が吠えれば風が吹き(虎嘯而風冽)、龍が興きれば雲が至り(龍興而致雲)、蟋蟀(こおろぎ)は秋を待って鳴き(蟋蟀竢秋唫)、蜉蝤(蜉蝣。かげろう)は陰の時(雨期)に現れます(蜉蝤出以陰)。『易』にはこうあります『飛龍が天にいれば、大人(賢才)が現れるという利がある(飛龍在天,利見大人)。』『詩(大雅文王)』にもこうあります『優れた多数の賢士がこの王国に生まれた(思皇多士,生此王国)。』

よって世が太平で主が聖明なら、俊艾(傑出した俊才)が自ら至ります。明明(明察な君子)が朝廷におり(明明在朝)、恭敬な臣下が列をなして並び(穆穆布列)、心を一つにして(聚精会神)互いに協力し合えば(相得益章)、伯牙(琴の名手)が遞鍾(琴の名)を操り、逢門子逢蒙。弓の名手)が烏号(弓の名)を引くという比喩を用いたとしても、まだこの意(君主と臣下の関係が適切な様子)を喩えるには足りません。

だから聖主は必ず賢臣を待って功業を大きくし、俊士もまた明主を待ってその徳を明らかにするのです。上下ともお互いを必要とし、喜んで交わり楽しみ(驩然交欣)、千載一合して論説を疑うことなければ、翼を拡げた時に喩えるなら(翼乎)鴻毛(羽毛)が順風に遇った時のように順調に羽ばたき、水が流れる勢いに喩えるなら(沛乎)巨魚が大壑(大海)を縦横する時のように勢いがあります。意を得た様子がこのようであれば、どのような禁(禁止された事)を止めることができず、どのような令を行うことができないでしょう(どのような禁令も法令も行き届きます)。教化が四表(四方。天下)に溢れ、横被(覆蓋)して無窮となります。そのおかげで聖主は四方を遍く窺望(窺い見ること)しなくても視が既に明らかになり、耳を傾けて聴き尽くさなくても聴が既に聡(耳が善いこと)となります(自ら耳目を労さなくても天下の様子を知ることができます)。太平の責任が満たされ、優游(安楽悠閑)の望が得られるので、休徵(美しい瑞祥)が自ずから至り、寿考(寿老。寿命)が無疆(永遠)となります。どうして彭祖(仙人)のように偃仰屈伸(伏したり仰向けになったり屈伸すること。ここでは修身修行の意味です)し、僑松(王僑と赤松子。どちらも仙人です)のように呴噓呼吸道家の呼吸術です)して、遥か遠くに俗を絶って世から離れなければならないのでしょうか。」

 
当時、宣帝が神仙の事を好んでいたため、王褒は敢えて仙人に言及し、方術の士よりも優秀な臣下を探して用いることを勧めました。