西漢時代201 宣帝(二十五) 先零羌討伐 前61年(3)

今回も西漢宣帝神爵元年の続きです。
 
[(続き)] 趙充国が辛武賢の意見に反対する上書をしたため、宣帝は趙充国の書を公卿に見せました。議論に参加した者は皆、「先零の兵は強盛で、しかも、幵の助に頼っています。先に、幵を破らなかったら、先零を図ることはできません」と言いました。
そこで宣帝は侍中許延寿を強弩将軍に任命し、酒泉太守辛武賢を酒泉郡内で破羌将軍に任命しました。璽書を下賜して辛武賢の策を嘉します。
同時に趙充国に書を送って譴責しました「今は転輸が並起し(各地から物資が輸送され)、百姓が煩擾(煩い混乱していること)しているのに、将軍は万余の衆を指揮しながら、秋がもたらす水草の利に早く乗じて畜食(家畜や食糧)を奪おうとせず、冬が来るのを待とうとしている。しかし虜は全て食糧を蓄え、多くが山中に隠れ住み、険阻に頼るだろう。逆に将軍の士は寒さに苦しみ、手足に皸瘃あかぎれ、凍傷)ができる。このような状況になってどうして利があるのだ。将軍は中国の費(出費)を考慮せず、歳数(年数)をかけて敵に勝とうとしているが、将軍の誰がこのような方法を喜ばないだろう(いたずらに時間をかけて敵に勝とうとするのなら、凡庸な将軍でもできることだ。原文「将軍誰不楽此者」)。今、詔によって破羌将軍武賢等に兵を指揮させ、七月に羌を撃つことにした。将軍は兵を還して共に進め。これ以上躊躇してはならない(勿復有疑)。」
 
漢書帝紀』では、許延寿は既に出征しており、この時は酒泉太守辛武賢を破羌将軍に任命して二将軍(趙充国と許延寿)と共に進軍するように命じています。
 
また、『漢書帝紀』は宣帝が天下に発した詔を紹介しています「軍旅を暴露させて転輸(物資の輸送)が煩労なので、諸侯王、列侯、蛮夷の王侯君長で二年(神爵二年。翌年正月)に朝見しなければならない者も、全て朝見の必要がない。」
 
資治通鑑』に戻ります。
趙充国が上書しました「幸いにも以前、陛下が書を下賜し、人を送ってを諭させ、大軍が迫っていても漢はを誅さないことを伝えて、彼等の謀を瓦解させようとしました。よって臣が幵豪雕庫を釈放して天子の至徳を宣揚させ、、幵の属は皆、明詔を聞き知ったのです。今、先零羌の楊玉が岩石や山木で身を守り、機会を窺って寇を為そうとしていますが、羌はまだ罪を犯していません。それなのに先零を置いて先にを撃ったら、罪を赦して無辜(無罪)を誅すことになります。一難が起きたのに両害を受けるのは(起壱難,就両害)、誠に陛下の本来の計ではありません。臣は兵法に『攻めるには足りなくても守るには余りある(攻不足者守有余)』とあり、また『戦をよくする者は人を誘い出し、人に誘われることはない(善戦者致人,不致於人)』とあると聞いています。
今、羌は敦煌、酒泉で寇を為そうとしているので、兵馬を整えて戦士を訓練し、(敵が)至るのを待つべきです。坐して敵を到らせる戦術(致敵之術)を得れば、逸によって労を撃つことができるので(安逸とした余裕ある状態で疲労した敵を撃てるので)、勝利を得る道となります。しかし今は二郡の兵が少なく、守るにも足りないことを恐れているのに、逆に兵を発して進攻し、虜を到らす戦術(致虜之術)を棄てて虜に誘い出される道(為虜所致之道)に従おうとしています。臣の愚見によるなら、これは便(利)がありません。
先零の羌虜は背畔(背反)を欲したので、幵と仇を解いて約を結びましたが、私心(心中)では漢兵が至った時、、幵が(先零に)背くことを恐れないではいられません。臣の愚見によるなら、先零の計は常にまず、幵の急に赴いて、幵の危機を援けて)その約を堅くすることを欲しています。(漢が)先に羌を撃ったら先零が必ずこれを助けます。今、虜の馬は肥えて、糧食も豊かな時なので、攻撃しても恐らく傷害を与えることはできず、しかも先零が羌に徳を施して約を堅くし、その党を合わせる機会を与えてしまいます。虜が交わって党を堅くしてから、精兵二万余人を合わせ、諸小種(他の小族)を脅迫したら、附著の者(帰服する者)がしだいに増えていき、莫須(羌の小族)の属(類)は軽々しく離すことができなくなります(莫須等の小族を先零から離すことができなくなります)。その結果、虜兵が徐々に増え、これを誅すために用いる力は数倍になります。臣は国家の憂が重なり、解決には十年をもって数えなければならず、二三歳(年)だけでは済まなくなることを恐れます。
臣の計によるなら、先に先零を誅せば、、幵の属は兵を煩わせなくても服します。先零を既に誅したのに、幵が服さなかったら、正月になってからこれを撃てば、計の理を得て(計に道理があり)、しかも時に符合しています。今兵を進めても、誠にその利は見えません。」
 
六月戊申(二十八日)、趙充国が上奏しました。
秋七月甲寅(初五日)、宣帝が璽書を送り、趙充国の計に従うことを報せました。
 
趙充国は兵を率いて先零が住む地に至りました。
先零羌は久しく屯聚(屯兵)していたため、油断して警戒を怠っています。遠くに漢の大軍を眺め見ると、車重(車馬や輜重)を棄てて湟水を渡ろうとしました。狭くて険しい道を進みます。
趙充国は敢えてゆっくり後を追いました。ある者が「利を追うのに行軍が遅すぎます」と言いましたが、趙充国はこう言いました「これは窮寇(追いつめられた敵)なので逼迫してはならない。緩やかにすれば(ゆっくり追えば)走るだけで顧みないが(退却するだけで後ろを見ることはないが)、急にすれば(急いで追えば)還って致死するだろう(引き返して尽力死戦するだろう)。」
諸校は皆、「その通りです(善)」と言いました。
先零羌は川に入って数百人が溺死しました。投降した者と斬首された者は五百余人に上ります。先零の馬、牛、羊十万余頭と車四千余輌も漢軍に奪われました。
 
漢兵が地に至ると、趙充国は軍中に命じて聚落(集落)に放火すること、羌人の田地で草を刈ったり放牧することを禁じました。それを聞いた羌は喜んで「漢はやはり我々を攻撃しに来たのではない」と言いました。
(族長)の靡忘が人を送って趙充国に言いました「故地に帰ることを願います。」
趙充国はこれを朝廷に報告しましたが、朝廷の指示が届く前に靡忘が自ら帰順しました。趙充国は飲食を下賜し、靡忘を帰して族人を諭させます。
護軍以下の者が皆争って趙充国に言いました「彼は反虜(謀反した賊)です。勝手に帰らせるべきではありません。」
趙充国が言いました「諸君はただ文(法)に従って自分を守ること(便文自営)だけを欲しており、公家のために忠計を為していない。」
言い終わる前に宣帝の璽書が届きました。靡忘に功を立てて贖罪する機会を与えるという内容です。
こうして趙充国は兵を煩わせることなくを平定できました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代202 宣帝(二十六) 屯田の計 前61年(4)