西漢時代202 宣帝(二十六) 屯田の計 前61年(4)

今回も西漢宣帝神爵元年の続きです。
 
[(続き)] この頃、宣帝が詔を発し、破羌将軍辛武賢と強弩将軍許延寿を趙充国の屯所に向かわせました。十二月に趙充国と合流して先零を攻めるように命じます。
 
当時、羌人の降者が万余人もいたため、趙充国は羌族が必ず失敗すると予測しており、騎兵を解散させて屯田によって羌族の疲弊を待とうとしていました。
趙充国は屯田の許可を求める上奏文を作りましたが、提出する前に進攻を命じる璽書が届きます。
 
趙充国の子で中郎将の趙卬(朝廷にいます)は、父が皇帝の命令に逆らうことを恐れ、客を送って趙充国を諫めさせました。客が趙充国に言いました「もし(将軍が)兵を出すように命じたために、軍が破れて将が殺され、国家を傾けることになるのなら、将軍がこれ(自分の意見。屯田の策)を守るのも良いでしょう。しかし利と病(害)があるだけなら(出兵したところで国が滅ぶほどの禍が無く、個人の利害があるだけなら)、何を争う必要があるのでしょうか。一旦、上意(皇帝の意思)に合わなかったら、(陛下は)繡衣(皇帝の使者。『資治通鑑』胡三省注によると御史です)を派遣して将軍を譴責します。将軍は自らの身を保つこともできないのに、何が国家の安ですか(自分も守れないのに国家を安全にすることはできません)。」
趙充国が嘆いて言いました「これは何と不忠の言葉だろうか。元々わしの言を用いていたら、羌虜が今の状況に至ることができたか。以前、使者として羌に行ける者を挙げた時、わしは辛武賢を推挙した。しかし丞相と御史が義渠安国を派遣するように進言し、その結果、羌で沮敗(挫折、失敗)した。金城、湟中の穀物が一斛あたりわずか八銭だった時、わしは耿中丞(『資治通鑑』胡三省注によると、司農中丞耿寿昌。耿は古の国名で、晋に滅ぼされましたが、子孫が国名を氏にしました)にこう言った『三百万斛の穀物を買い入れておけば、羌人は敢えて動こうとしないでしょう(食糧の備えがあれば敵が攻めて来ることはありません)。』ところが耿中丞は百万斛の買い入れを申請し、実際には四十万斛しか得られず、しかも義渠が再び使者になった時、その半分を費やしてしまった。この二册(策)を失ったから羌人が敢えて叛逆するようになったのだ。失ったのは豪釐(亳釐。わずかなこと)だが、その差(結末の違い)は千里に及ぶ(失之豪釐,差以千里)。既にこうなってしまったので、兵(戦事)は久しく解決できない。もし四夷(四方の少数民族が突然動揺し、これを機に互いに立ち上がったら、たとえ知者(智者)がいても後をうまく処理することはできないだろう。羌だけが憂いとするに足るのか(羌だけが憂いではない)。わしは死によって(命をかけて)これ(自分の意見)を固く守る。明主には忠言を為すことができる。」
 
趙充国は屯田の許可を求める上奏をしました「臣が率いる吏士、馬牛が食用としている糧穀、茭稾(飼料)は広大な地から調度(調達)されていますが、難(戦乱)は久しく解決できないので、傜役が止むことはありません。これが原因で他の変事が起こり、明主の憂いとなることを恐れます。これは誠に朝廷の勝利を確定させる策(素定廟勝之册)ではありません。そもそも羌は、計によって破るのは容易ですが、兵を用いて碎く(破る)のは困難です。よって臣の愚心は攻撃に便(利)がないと考えます。
計るに、臨羌から東に向かって浩亹に至るまで、羌虜の故田および公田で民がまだ開墾していない地は二千頃以上あり、その間の郵亭は多くが破壊されています。臣は以前、部下の士卒を山に入れ、林木六万余枚(本)を伐って水(川)の辺に置きました。臣は騎兵を解散し、歩兵一万二百八十一人を留めて要害の地に分屯させ、氷が融けるのを待って(木材を)漕下し(水運で川の下流に輸送し)、郷亭を修築して溝渠を通し、湟陿以西の道や橋七十カ所を直し、鮮水周辺に到達できるようにすることを願います。田事(農事)が始まる頃(翌年春)、一人当たりに三十を賦し(与え)、四月になって草が生えたら、郡騎および属国の胡騎をそれぞれ千人動員し、草地において田者屯田兵のために遊兵とします。屯田の収穫は)金城郡に入れ、蓄積を増やして大費(大量な出費)を省きます。今、大司農が転穀(食糧の輸送)して至った物資は一万人の一歳(年)の食を支えるに足ります。田処および器用の簿(帳簿)を謹んで献上します。」
 
宣帝が上奏文を読んで問いました「将軍の計に従ったとしたら、虜はいつ誅に伏し、兵事はいつ解決できるか?その便(利)を孰計(熟考)し、改めて上奏せよ。」
 
趙充国が上書して詳しく報告しました「臣が聞くには、帝王の兵は全(万全)によって勝利を得るものです。だから謀を貴んで戦を重要なこととしないのです(貴謀而賎戦)。『百戦して百勝しても善の中の善(最善)ではない。よって(敵を)勝てない状態にして、敵に勝てる機会を待たなければならない(百戦而百勝,非善之善者也,故先為不可勝以待敵之可勝)』といいます。
蛮夷の習俗は礼義の国と異なりますが、害を避けて利を求めることを欲し、親戚を愛し、死亡を畏れるのは同じです。今、虜はその美地薦草(牧草)を失い、寄託(身を安んじること)を憂愁し、遠方に遁走して骨肉の心が離れ、人々に畔志(叛逆の意志)が生まれています。ここで明主が軍を還らせて兵を解き(班師罷兵)、一万人を田に留め、天時に順じて地利を利用し、虜(敵)に勝てる機会を待てば(以待可勝之虜)、すぐに辜(罪)に伏させることはできなくても、兵事を期月(一年)で解決する望みはあります。羌虜は既に瓦解しており、前後して投降した者は一万七百余人に及び、言を受けて去った者(漢の勧告を受けて帰郷し、同族に帰順を諭した者)は全部で七十輩(七十組)になります。彼等は坐して羌虜を支解(分解)させる具(道具)です。臣は兵を出さず田に留める策屯田策)の便宜十二事を謹んで箇条ごとに報告します。
歩兵九校(軍の一部に一校がいます。歩兵九校は歩兵を率いる九人の指揮官を意味します)と吏士万人を留めて屯田させ、武備(戦備)とすれば、田によって穀物を得て、威と徳を並行させることができます。これが第一の便(利)です。屯田によって羌虜を排折(排斥攻撃)し、肥饒(肥沃)の地に帰らせず、その衆を貧破(貧窮)にすることで、羌虜を互いに背反させる形勢を成すことができます。これが第二の便です。居民が共に田作して農業を失いません。これが第三の利です。軍馬の一カ月の食を計算したら田士屯田兵の一歳(一年)を支えられます。騎兵を解散したら大費(大きな出費)を省けます。これが第四の便です。春が来たら省甲(軽装)の士卒が河黄河(湟水)に沿って臨羌(『資治通鑑』胡三省注によると臨羌県は金城郡に属します)に漕穀穀物を水運すること)し、これを羌虜に示して威武を揚げれば、後世まで折衝(敵を制御すること)の具(資本)とすることができます。これが第五の便です。閒暇の時(農閑時)、以前伐った木材を下し(川の下流に運び)、郵亭を修築して(物資を)金城に輸送することができます。これが第六の便です。兵を出したら危険を冒して幸を求めることになります(戦っても勝つとは限りません。原文「乗危徼幸」)。しかし兵を出さなかったら反畔(反叛)の虜を風寒の地に逃走させ、霜露、疾疫、瘃墮(凍傷)の患を経験させることになるので、坐して必勝の道を得られます。これが第七の便です。経阻(険阻な地を通ること)、遠追(遠くまで追撃すること)、死傷の害がありません。これが第八の便です。内(国内)に対しては威武の重を損なわず、外に対しては虜が隙に乗じる形勢を与えません。これが第九の便です。また、河南の大幵(『漢書趙充国辛慶忌伝(巻六十九)』では「大幵と小幵」。どちらも羌族です)を驚動させることがなく、他変(他の変事)の憂を生ませることもありません。これが第十の便です。隍陿中の道橋を修築し、鮮水に到達できるようにさせて西域を制せば、威を千里に伸ばし、枕席(枕と蓆。寝床)の上から師(軍)を通過させることができます(軍の移動が容易になります)。これが第十一の便です。大費が既に省かれたら、繇役(徭役)をあらかじめ中止し、不虞(不足の事態)に備えることができます。これが第十二の便です。屯田(兵)を留めれば十二の便を得て、兵を出したら十二の利を失います。明詔の采択(採択)を請うだけです。」
 
 
 
次回に続きます。