西漢時代203 宣帝(二十七) 趙充国の勝利 前61年(5)

今回で西漢宣帝神爵元年が終わります。
 
[(続き)] 宣帝が再び趙充国に書を送って問いました「兵事を期月(一年)で解決する望みがあるというのは、今年の冬と言っているのか?何時の事だと言っているのだ?将軍は(漢が)多くの兵を解散させたと聞いた虜が、丁壮を集めて田者(田地の兵)や道上の屯兵を攻擾(攻撃攪乱)し、また人民を殺略することを考えないのか。そうなっからどうやってこれを止めるのだ。将軍は孰計して改めて上奏せよ。」
 
趙充国が上奏しました「兵は計を本とし、よって多算(計謀が多いこと)は少算に勝ると聞いています。先零羌の精兵で今残っているのは七八千人に過ぎず、地を失い、分散して遠くに移り住み、飢凍に苦しんでいるため、離反して還る者が絶えません。臣の愚見では、虜の破壊(壊滅)は日月の内に期待でき、遠くても来春のことだと判断したので、兵事は期月(一年)で解決する望みがあると言ったのです。北辺を窺い見ると、敦煌から遼東の一万千五百余里において、乗塞(要塞)列地(各地)に吏卒数千人がおり、虜はしばしば大衆でこれを攻めましたが、害せませんでした。今、騎兵を解散させたとしても、虜が屯田の士である精兵万人を見たら、今から三月末までは虜の馬が羸瘦(痩せて弱いこと)になるので、敢えて妻子を他種(他族)の中に棄てて遠く河山を渡り、寇を為しに来ることはありえません。また、敢えて累重(妻子)を率いて故地(漢が占領した地)に帰ることもありえません。これが臣の愚計において虜が必ずそれぞれの地で瓦解すると推測した理由であり、戦わなくても(羌が)自ら破れるという册(策)です。
虜の小さい寇盗(小規模な侵略)については、時には人民を殺すこともあり、元々すぐに禁止できるものではありません。戦っても必ず勝つとは限らないのなら、軽率に刃を接することなく、攻めても必ず取れるとは限らないのなら、軽率に衆を労さないものだ(戦不必勝,不苟接刃。攻不必取,不苟労衆)と聞いています。もし兵を出すように命じて、たとえ先零を滅ぼせなくても、虜が完全に小寇を為せなくするようにできるのなら、出兵も良いでしょう。しかし今と同じで(小さい寇盗を禁じることはできず)、しかも坐して勝つ道を棄てて、いたずらに危険な形勢に乗じ、最後まで利を見ることができず、内を空にして自ら罷敝(疲弊)し、貶重(威重を落とすこと)して自らを損なうのは、蛮夷に示すことではありません(蛮夷に対応する姿勢ではありません)。また、大兵が一度出たら、帰還する時、また留めることはできません(大軍が出征して戻ったら、兵には帰郷の心が生まれるので、再び駐留させて羌に備えることはできません)。しかし湟中の地を空にすることもできません。このようであるので、屯田兵を置かなかったら)徭役をまた新たに発することになり、臣の愚見によるなら便(利)がありません。
臣が自らを窺い考えたところ、詔を奉じて塞から出て、軍を率いて遠くを撃てば、天子の精兵を尽きさせ、車甲を山野に散乱させて、たとえ尺寸の功が無くても、とりあえず疑いから逃れる便(利)を得ることはでき、後の咎も余責(全うできていない責任)もありません(皇帝の命令に従って出兵すれば、たとえ失敗しても自分の責任ではありません)。しかしこれは人臣における不忠の利であり、明主社稷の福ではありません。」
 
趙充国が上奏する度に宣帝は公卿群臣に議論させました。
初めは趙充国の計に賛成する者が十分の三しかいませんでしたが、やがて十分の五になり、最後は十分の八になりました。
宣帝は詔を発して以前、趙充国の計に便がないと言った者に詰問しました。詰問された者は皆、頓首してかつての考えが誤りだったことを認めます。
魏相が言いました「臣は愚かなので兵事の利害には習熟していませんが、後将軍(趙充国)はしばしば軍册(軍策)を練り、その言は常に是(正しい)です。彼の計は必ず用いることができると臣が保証しましょう。」
 
宣帝は趙充国に返書を送り、その意見を嘉して採用することを伝えました。
但し、破羌将軍辛武賢と強弩将軍許延寿もしばしば攻撃を主張していたため、双方の計に従うことにしました。
宣帝は詔を発して両将軍と中郎将趙卬を出撃させます。
 
強弩将軍許延寿は羌族を撃って四千余人を下し、破羌将軍辛武賢は二千級を斬首しました。
中郎将趙卬も二千余人を斬首または捕虜にしました。
その間に趙充国は更に五千余人を投降させました。
 
宣帝は詔を発して兵を解散させ、趙充国だけ留めて屯田を命じました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
大司農朱邑が死にました。
朱邑は優秀な循吏だったため、宣帝が憐惜してその子に黄金百斤を下賜し、祭祀を行わせました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、前将軍龍雒侯韓増を大司馬車騎将軍に任命しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
丁令が三年続けて匈奴を侵し、数千人を殺略しました。
匈奴が万余騎を送って丁令を撃ちましたが、得るものはありませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代204 宣帝(二十八) 西羌平定 前60年(1)