西漢時代206 宣帝(三十) 西域都護 前60年(3)
今回で西漢宣帝神爵二年が終わります。
鄭吉は車師を破り(宣帝地節三年・前67年)、今回、日逐王も降したため、威信が西域を振わせました。
鄭吉は車師以西の北道を併せて監護することになり、「都護」と号されます。西域都護は鄭吉から始まります。
『資治通鑑』胡三省注によると、「都」は「大」「総」に通じます。南北二道を監護するので「都護」といいました。
宣帝は鄭吉を安遠侯に封じました。
鄭吉は中西域(西域中部)に莫府(幕府)を置きました。
『漢書・百官公卿表上』は「西域都護は加官(兼任の官)で、宣帝地節二年(前68年)に始めて置かれた。騎都尉、諫大夫に西域三十六国を監護させた。副校尉がおり、秩は比二千石で、丞は一人、司馬、候、千人は各二人である」としていますが、「地節二年」は「神爵二年」の誤りです。
また、『漢書・西域伝上(巻九十六上)』は「日逐王が単于に叛し、衆を率いて投降したため、鄯善以西を監護する鄭吉がこれを迎えた。漢に入ってから、日逐王を帰徳侯に、鄭吉を安遠侯に封じた。この年は神爵三年である。鄭吉に北道も併せて監護させ、都護と号した。都護は鄭吉を置いたことから始まる」としていますが、封侯は神爵三年、西域都護を置いたのは神爵二年です(以上、『資治通鑑』胡三省注参照)。
『資治通鑑』に戻ります。
匈奴がますます弱くなり、西域を争う力がなくなったため、僮僕都尉が廃止されました。
通常、僮僕都尉は焉耆、危須、尉犂一帯に置かれ、諸国から賦税を徴収しました。今回、日逐王が漢に降り、西域諸国が全て漢に服したため、僮僕都尉が廃されました。
烏孫昆彌(烏孫王)・翁帰靡が長羅侯・常恵を通して上書しました「漢の外孫・元貴靡(楚主・劉解憂の長子。宣帝本始二年・前72年参照)を嗣(後嗣)に立て、再び漢の公主を娶らせる機会を得て、婚姻を結んで親族の関係を重ね(結婚重親)、匈奴と畔絶(叛絶)することを願います。」
宣帝が詔を発して公卿に議論させました。
しかし宣帝は烏孫が大功を立てて(宣帝本始三年・前71年、匈奴を破りました)故業(匈奴との関係)を絶ったことを評価したため、烏孫主・劉解憂の弟の子・劉相夫(『資治通鑑』は「弟」としていますが、『漢書・西域伝(巻九十六下)』では「弟の子」です。『資治通鑑』は「子」の字が抜けているようです)を公主とし、豊富な礼物を準備して烏孫に嫁がせることにしました。常恵に命じて敦煌まで送らせます。
しかし一行が塞を出る前に翁帰靡が死にました。烏孫の貴人は以前の約束に従って岑娶の子・泥靡を昆彌に立て、狂王と号しました(岑娶は死ぬ時、季父(叔父)・大禄の子・翁帰靡に国を与えて「泥靡が大きくなったら国を返せ」と言いました。泥靡は胡婦(匈奴人の妻)の子です。宣帝本始二年・前72年参照)。
宣帝が公卿に議論させると、蕭望之が言いました「烏孫は両端を持っているので(漢と匈奴の様子を伺って両方と関係を保っているので)、約を結ぶのは困難です。今、元貴靡が立たなかったことを理由に少主を還らせれば、信においては夷狄を裏切ったことにならず、中国にとっては福となります。少主(の婚姻)を中止しなかったら、繇役(徭役)が起きることになります。」
宣帝はこれに同意し、少主を呼び戻しました。
『漢書・西域伝下』はこれを宣帝元康二年(前64年)の事としていますが、『漢書・蕭望之伝(巻七十八)』は神爵二年(本年)としています。元康二年は蕭望之が大鴻臚になっていないので、神爵二年が正しいはずです(『資治通鑑』胡三省注参照)。
次回に続きます。