西漢時代207 宣帝(三十一) 韓延寿 前59年

今回は西漢宣帝神爵三年です。
 
西漢宣帝神爵三年
壬戌 前59
 
[] 『漢書帝紀』からです。
春、宣帝が楽游苑を建築しました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月丙辰(十六日)、丞相高平侯魏相(憲侯)が死にました。
 
夏四月戊辰(中華書局『白話資治通鑑』は「戊辰」を恐らく誤りとしています)御史大夫丙吉を丞相に任命しました。
丙吉は寬大を貴び、礼讓を好み、小事にこだわりませんでした。
そのため、当時の人々は「丙吉は大体(大局)を理解している」と評価しました。
 
秋七月甲子(二十六日)、大鴻臚蕭望之が御史大夫になりました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月、宣帝が詔を発しました「吏(官吏)が廉平でなければ治道が衰える。今、小吏は皆、勤事しているが、俸禄が薄いので、百姓を侵漁(虐げること)させないようにしたくても難しいことだ。よって百石以下の吏は俸十五を増すことにする。」
 
漢書帝紀』の注と『資治通鑑』胡三省注によると、百石の官員は月に六百銭の俸を与えられていました。「俸十五を増す(益吏百石已下俸十五)」というのは、俸禄が一斛(一石)の者は五斗(一石の半分)を増やすという意味です。元の俸禄の半数が増やされたことになります。
荀悦の『前漢孝宣皇帝紀(巻第十九)』は「百石以下の吏は俸五十斛を増やした(其益吏百石已下俸五十斛)」としています。胡三省は「十五」の理解が困難なため「五十斛」に書き換えたのであろうとしています。百石の官員に関しては、百石の半数の五十斛(五十石)を増やされたことになるので間違いではありません。しかし百石に満たない官員も一律五十斛を増やしたことになってしまうので、『前漢紀』の記述は元の意味から外れています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、東郡太守韓延寿が左馮翊になりました。
 
以前、韓延寿は潁川太守を勤めました。
潁川は趙広漢が吏民を互いに告発譴責させたため(宣帝本始三年71年参照)、怨讎が蔓延していました。
韓延寿はこれを改めて礼讓を教えます。故老(見識が豊かな老人)を召し、共に嫁娶(結婚)や喪祭の儀品儀礼について議定し、基本は古礼に則って今までの決まりを越えさせませんでした。百姓は韓延寿の教えを遵守し、偶車馬(土や木で作った車馬)や下里偽物(副葬に使う器物)を売る者はそれらを市の道に棄てました(民が過度な副葬をしなくなりました)
黄霸が韓延寿に代わって潁川を治めるようになってからも、韓延寿の方法を継承して大治しました(後に韓延寿は東郡太守になり、黄覇が代わりました。『漢書趙尹韓張両王伝(巻七十六)』参照)
 
韓延寿が官吏になってからは、礼義を重視して古の教化を好み、訪問した地では必ず賢士を訪ねて礼遇し、広く謀議を用いて諫争を採用しました。
孝悌の行いがある者を表彰し、学官(学校)を修建しました。春秋は郷射(射術を競って人材を選抜する儀式)を行い、鍾鼓管弦(楽器)を並べ、升降揖讓の礼(参加者が競技に臨む時や退く時、揖礼して譲り合う礼義)を盛んにしました。都試で武事を講習したら(『資治通鑑』胡三省注によると、諸郡は八月に武事の演習をしました。これを都試といいます。太守、都尉、令、長、丞、尉が都試に参加して優秀な人材を探しました)、斧鉞、旌旗を設け、射術や御術を習わせました。
城郭を修築したり賦租を徴収する際は、事前に布告して期日を明らかにし、約束した時間を守ることを大事とみなしました。
吏民は韓延寿を敬畏し、次々に帰心します。
 
韓延寿は正と五長(『資治通鑑』胡三省注によると、「正」は郷や里の正(長)で、「五長」は「伍長」です)を置きました。それぞれが民を孝悌に導き、姦人を留めさせず、閭里や阡陌(田野)に非常な事があったらすぐ吏に報告したため、姦人は敢えて入境しなくなりました。
韓延寿の政治は、始めは煩わしく思われましたが、後には吏に追捕(姦人を逮捕すること)の苦がなくなり、民に箠楚(杖、棍棒等の刑具。ここでは刑罰を意味します)の憂がなくなり、皆、それを便安(便利安全)なこととしました。
 
韓延寿は下吏と接する時も厚く恩を施しましたが、約誓(約束)も明らかにしました。もし欺き裏切る者がいたら、韓延寿は自分の責任を痛感し、「私が彼を裏切ったというのか(豈其負之)。何が至らなかったのだ」と言って自分を激しく責めました。
それを聞いた吏は自ら悔いて傷つき、ある県尉は自分を刺して死ぬほどでした。
門下の掾(属官)も自剄しましたが、他の者が助けたため、死には至りませんでした。それを知った韓延寿は涕泣して吏医(官吏と医者)を派遣し、治視(怪我の治療と監護)させてその家の賦税・徭役を大幅に省きました(厚復其家)
韓延寿は東郡に三年おり、その間に出した令は必ず実行され、禁じた事は必ずなくなりました。断獄(刑獄。犯罪)も大きく減ったため、能力が認められ、京師に入って左馮翊になりました。
 
韓延寿が各県を巡行して高陵に至った時、ある兄弟が田地を争ってそれぞれ韓延寿に訴えました。
韓延寿は大いに心を痛め、「私は幸いにも位を備え(左馮翊の位を得て)、郡の表率(見本)となったが、教化を宣明できず、民に骨肉の争訟をさせることになってしまった。既に風化(教化)を傷つけ、しかも賢徳な長吏(県の令丞)、嗇夫(県の官吏)、三老、孝弟(悌)に恥を受けさせた。この咎は馮翊(左馮翊韓延寿)にある。私が最初に退くべきだ」と言いました。
当日、韓延寿は病と称して政務を行わず、伝舍に入って臥し、閤(小門。戸)を閉じて反省しました。
県中の者がどうすればいいのか分からず、令丞や嗇夫、三老も皆、自分を縛って罪(刑)を待ちました。
そのため訴えを起こした者の宗族が互いに譴責し、兄弟二人は深く自悔しました。二人とも自髠(自ら髪や髭を剃ること)肉袒(上半身を裸にすること)して謝罪し、互いに田を譲ることを願います。兄弟は生涯二度と争わなくなりました。
この後、郡中が和睦し、皆、互いに敕厲(戒め奨励すること)して過ちを犯す者がいなくなりました。
 
韓延寿の恩信は二十四県(『資治通鑑』胡三省注によると、左馮翊は高陵、櫟陽、翟道、池陽、夏陽、衙、粟邑、谷口、蓮勺、鄜、頻陽、臨晋、重泉、郃陽、祋、武城、沈陽、褱徳、徵、雲陵、万年、長陵、陽陵、雲陽の二十四県を治めました)に行き届き、誰も自分の利のために訴訟を起こそうとはしなくなりました。
また、韓延寿が至誠を拡めたため、吏民は欺紿(欺瞞)ができなくなりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。 
匈奴握衍単于が先賢撣(日逐王。前年、漢に降りました)の二人の弟を殺しました。
烏禅幕(前年参照)が二人のために命乞いをしましたが、単于が聞かなかったため、心中に怨みを抱きます。
 
後に左奧鞬王が死んだため、単于は自分の小子を奧鞬王(左奧鞬王)に立てて単于庭に留めました。
しかし奧鞬の貴人は共に故奧鞬王の子を王に立てて共に東に遷りました。
単于の右丞相が万騎を率いて攻撃しましたが、数千人を失い、結局勝てませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

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