西漢時代208 宣帝(三十二) 厳延年 前58年
今回は西漢宣帝神爵四年です。
西漢宣帝神爵四年
癸亥 前58年
宣帝が詔を発しました「最近、鳳皇と甘露が京師に降集し、嘉瑞が並んで現れた。泰一、五帝、后土の祠を修興し、百姓が祉福(「祉」も「福」と同義です)を蒙るために祈祷したら、鸞鳳(神鳥)が万挙し(万を数える鸞鳳が飛び立ち)、高く飛んで旋回しながら下を眺め(蜚覧翱翔)、傍に集まって止まった。斎戒の暮(夜)には神光が顕著になった(明るく照らした)。薦鬯(「鬯」は祭祀に使う香酒です。「薦鬯」は酒を捧げるという意味で、祭祀を意味します)の夕には神光が交錯し、あるいは天から降り、あるいは地から登り、あるいは四方から来て壇に集まった。上帝が嘉嚮(嘉享。神が祭祀を受け入れること)し、海内が承福(福を蒙ること)したので、天下を赦し、民に爵一級を、女子百戸ごとに牛酒を、鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りがない老人)・高年(高齢者)に帛を下賜する。」
こうして大赦が行われました。
潁川太守・黄霸は郡に前後八年おり、郡政がますます正しくなりました。
『漢書・百官公卿表下』と『資治通鑑』胡三省注によると、宣帝地節四年(前66年)に潁川太守・譲(姓名を「王譲」とする説もあります。下部コメント欄を参照ください)が左馮翊になり、黄霸が潁川太守になりました。元康三年(前63年)、黄霸は京師に入って守京兆尹(「守」は「代理」「試用」の意味です)になりましたが、数カ月で潁川太守に戻されました。本年で足掛け九年、京兆尹を勤めた期間を除いたら前後約八年になります。
当時、鳳皇や神爵(神雀。瑞鳥)がしばしば郡国に集まっていましたが、潁川に最も多く集まりました(または「止まりました」)。
夏四月、宣帝が詔を発しました「潁川太守・霸が詔令を宣明(宣布して明らかにすること)したおかげで、百姓が郷化(教化に向かうこと)し、孝子、弟弟(悌弟)、貞婦、順孫が日に日に多くなり、田者(農民)は畔(あぜ。田地の境界)を譲り合い、道に落ちている物も拾って着服する者がいなくなった(道不拾遺)。また、鰥寡(配偶者を失った男女)を養視し、貧窮を贍助(救済)し、獄によっては八年の間、重罪の囚(囚人)がいなかった。よって、関内侯の爵と黄金百斤を下賜し、秩を中二千石にする。」
『漢書・宣帝紀』の注によると、漢制では、秩二千石の官員が一年で得るのは千四百四十石で、実際は二千石に達していませんでした。中二千石は一年で二千百六十石を得られるので、二千石を満たすことになります。本来、郡守の秩は二千石ですが、黄覇を中二千石にしたのは宣帝が黄覇を優遇したことを表しています。
尚、黄覇はかつて罪を犯したため八百石のまま郡守に着任していました(宣帝元康三年・前63年参照)。本年に八百石から中二千石になったのか、これ以前に二千石に戻されており、更に中二千石になったのかは、はっきりしません。
宣帝は潁川の孝弟(悌)の士や義行がある民、三老、力田にも内容に応じて爵や帛を下賜しました。
数カ月後、宣帝は黄霸を召して太子太傅に任命しました。
宣帝は潁川の吏民で義行がある者にそれぞれ爵二級を与え、力田には一級を与えました。貞婦・順女(善良な女子。孝行な娘)には帛を与えました。
宣帝が内郡国(辺境以外の郡国)に命じて賢良の士で民と親しめる者を各一人推挙させました。
「呼留若王・勝之」と「伊酋若王・勝之」は同一人物のはずです。『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は、『匈奴伝上』の記述を「(握衍朐鞮単于が即位したばかりの事ではなく)本年の出来事を指すはずだ」としています。
冬十月、鳳皇十一羽が杜陵(宣帝陵)に集まりました。
河南太守・厳延年の政治は陰鷙(陰険)酷烈で、衆人が死罪になるはずだと思った者が一朝にして釈放されたり、死罪にはならないはずだと思った者が道理から外れて殺されることがありました。
吏民は厳延年の心意の深浅を測りかね、戦慄して禁令を犯さなくなります。
冬月(冬季)になると厳延年が属県の囚人を郡府に集めて裁きを行い、(多くの者が死刑になったため)流血が数里に渡りました。
そのため、河南の人々は厳延年を「屠伯」と号しました。
「屠」は牛や豚等を屠殺する者で、「伯」は「長」の意味です。『資治通鑑』胡三省注によると、家畜を屠殺するように人を殺したことを意味します。
厳延年は以前から黄霸の為人を軽視していました。近隣の郡守になってから、黄覇の褒賞が自分より上だったため、心中不服になります。
府丞・義が帰って厳延年に会いに行くと、厳延年はこう言いました「これら蝗は鳳皇が食べるのではないのか?」
義は年老いて思考が衰えており、しかもかねてから厳延年を畏れていたため、中傷されるのではないかと恐れました。
厳延年はかつて義と共に丞相史を勤めていたので、実際は厚く遇して親しみ、礼物も豊富にしていました。
ところが義はますます恐れを抱きます。そこで自ら筮(占)を行うと、死卦が出ました。義は忽忽(失意の様子)として楽しむことがなくなります。
やがて、義は休暇を取って長安に行き、厳延年が犯した十事の罪名を上書しました。しかも偽りではないことを証明するために毒薬を飲んで自殺します。
その結果、厳延年には怨望の言葉を述べたり政事を誹謗する等、数事の罪名があることが明らかにされました。
十一月、厳延年は不道の罪に坐して棄市に処されました。
母が洛陽まで来た時、ちょうど報囚(囚人の判決)を見ました。
厳延年が都亭まで出向いて母に会おうとしましたが、母は閤(小門)を閉じて会いません。厳延年が閤下で冠を脱いで頓首し、久しく経ってから、やっと姿を現しました。
母は何度も譴責してこう言いました「幸いにも郡守を備えることができ(郡守の任を受けることができ)、一人で千里を治めていますが、仁愛教化によって愚民を全安(保護して安定させること)しているという声は聞いたことがなく、逆に刑罰に頼り、刑を多くして人を殺すことで威を立てようとしています。これがどうして民の父母の意となるでしょう(民の父母となるべき者の本意と言えるでしょうか)。」
厳延年は罪を認め、重ねて頓首して謝りました。自ら母のために車を御して府舍に帰ります。
母は正臘(臘祭)を終えてから、厳延年にこう言いました「天道は神明なので、人を殺すだけということはありません(人を殺したら自分も殺されます。原文「人不可独殺」)。図らずも老齢になってから壮子(壮年の息子)が刑戮を被る姿を見ることになってしまいました。もう行きます。汝から去って東に帰り、墓地の掃除をするだけです。」
母は郡に帰ってから兄弟や宗人にこの事を話しました。
一年余経ってから厳延年が処刑され、東海の人々は皆、母の賢智を称賛しました。
数カ月後、呼韓邪単于が兵を解いてそれぞれ故地に帰らせました。
民間にいた兄の呼屠吾斯を捜し出して左谷蠡王に立てます。
また、右賢貴人に人を送って右賢王を殺させようとしました。
今度は呼韓邪単于の兵が敗走しました。
次回に続きます。