西漢時代209 宣帝(三十三) 蕭望之と韓延寿 前57年
今回は西漢宣帝五鳳元年です。
西漢宣帝五鳳元年
甲子 前57年
春正月、宣帝が甘泉を行幸し、泰畤で郊祀を行いました。
皇太子・劉奭が冠礼を行いました。
皇太后(上官氏)が帛を下賜しました。丞相、将軍、列侯、中二千石は一人当たり百匹、大夫人(太夫人。列侯の母)は八十匹、夫人(列侯の妻)は六十匹です(丞相、将軍、列侯、中二千石帛人百匹,大夫人八十匹,夫人六十匹)。
荀悦の『前漢紀』は宣帝元康三年(前63年)に「この年、皇太子が冠した」と書き(『孝宣皇帝紀(巻第十八)』)、本年にも「皇太子が冠した」と書いていますが(『孝宣皇帝紀(巻第二十)』)、元康三年の記述は誤りです(『資治通鑑』胡三省注参照)。
夏、杜陵(宣帝陵)を建築している囚徒を赦しました。
この時、西方の呼揭王が来て唯犂当戸と計を謀り、共に讒言して「右賢王が自ら単于に立つことを欲している」と言いました。
屠耆単于は右賢王父子を殺しましたが、後に冤罪だと知り、唯犂当戸も殺しました。
これを聞いた右奧鞬王も自立して車犂単于になりました。
更に烏藉都尉も自立して烏藉単于になりました。
五単于が並立することになります。
車犂単于は敗れて西北に走ります。
屠耆単于は兵を率いて西南に移り、闟敦地に留まりました。
蕭望之が言いました「『春秋』の記載によると、晋の士匄が師(軍)を率いて斉を侵しましたが、斉侯が卒した(死んだ)と聞き、師を率いて還りました。君子は彼が喪を伐たなかったことを大(美徳)とし、その恩は孝子を服させるに足り、誼(義)は諸侯を動かす(感動させる)に足りると判断しました。以前、単于は教化を慕って善に向かい(慕化郷善)、(漢帝の)弟と称し、使者を派遣して和親を請い求めました。そのため海内は欣然とし(大いに喜び)、夷狄でこれを知らない者はいません。しかし約(和親の盟約)を奉じて全うする前に不幸にも賊臣に殺されました。今、これ(匈奴)を伐つのは、乱に乗じて災を幸とする(喜ぶ)ことであり、彼等は必ず奔走遠遁します。義に従って行動しなかったら(道義を無視して出兵したら)、恐らく兵を労苦させるだけで功がありません。使者を送って弔問し、その微弱を補佐し、その災患を救うべきです。四夷がこれを聞いたら、皆が中国の仁義を貴ぶでしょう。もし(漢の)恩を蒙ってその位を復すことができたら、必ず臣と称して服従します。これは徳の盛(盛徳)というものです。」
宣帝は蕭望之の意見に従いました。
冬十二月乙酉朔、日食がありました。
韓延寿が蕭望之に代わって左馮翊になりました。
蕭望之の動きを聞いた韓延寿も部吏(部下の官吏)を派遣して、蕭望之が左馮翊だった時、廩犧(『資治通鑑』胡三省注によると、左馮翊の属官に廩犧令、丞、尉がいました。廩は穀物を貯蔵し、犧は家畜を養います。どちらも祭祀の供物として使いました)の官銭から放散したとされる百余万銭に関して調査させました。
蕭望之が自ら上奏しました「(臣の)職は天下の総領にあり、事を聞いたら問わないわけにはいきません(御史大夫は百官を監察する官なので、疑惑があったら問い正さないわけにはいきません)。しかし延寿のために拘持(脅迫)されることになりました。」
宣帝は韓延寿が公正実直ではないと考え、それぞれの案件を詳しく調査するように命じました。
その結果、蕭望之の案件は無実だったと判断されます。
逆に蕭望之が派遣した御史が東郡で調査したところ、韓延寿に関しては様々な罪が見つかりました。騎士を考試する日(『資治通鑑』胡三省注によると、毎年行われる都試(軍事演習)を指すようです)、韓延寿は車服が豪華で侍衛の数も多く、礼制を越えていました。官の銅物を使い、月食の日を待って刀剣を鋳造しました。尚方(皇帝の器物を管理する官署。皇帝の刀剣も尚方で作られました)のやり方を真似しています。更に官銭を使い、個人的に小官を雇って徭役に従事させました(私假徭使吏)。車甲(兵車甲冑)を整えて装飾し、その費用は三百万銭以上になりました。
これらの罪状が原因で、韓延寿は狡猾不道の罪に坐して棄市に処されました。
吏民数千人が韓延寿を渭城まで送り、老小の者が車轂(車輪の中央部分。または車輪)を抑えて抱え、争って酒炙(酒や焼いた肉)を献上します。韓延寿は拒否するのが忍びず、一人一人と酒を飲み、その量は一石余に及びました。
韓延寿は送りに来た民に謝意を伝えるため、掾・史を分派して「吏民を遠くまで辛苦させてしまった(遠苦吏民)。延寿は死んでも悔いがない(死無所恨)」と告げさせました。
百姓で涙を流さない者はいませんでした。
次回に続きます。