西漢時代213 宣帝(三十七) 張敞 前53年(1)

今回は西漢宣帝甘露元年です。二回に分けます。
 
西漢宣帝甘露元年
戊辰 前53
 
資治通鑑』胡三省注によると、甘露が降ったため改元しました。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、宣帝が甘泉を行幸し、泰畤で郊祀しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
楊惲が誅殺されてから、公卿は京兆尹張敞が楊惲の党友だったため、その地位にいるべきではないとして弾劾しました。
しかし宣帝は張敞の才能を惜しんだため、特別に上奏文を留めて処理しませんでした。
 
この頃、張敞が掾(官属)の絮舜(絮が氏で舜が名です)を派遣してある案件を調査させました。ところが絮舜は張敞が間もなく罷免されると思っていたため、勝手に自分の家に帰り、「五日間の京兆尹だ(五日京兆耳)。どうしてまた案事(案件を調査したり処理すること)できるか」と言いました。
それを聞いた張敞は部吏(部下の官吏)を送って絮舜を逮捕させ、獄に繋げました。昼も夜も審問して死刑に値する罪を成立させます。
絮舜が死刑に処される時、張敞は主簿に教(恐らく刑を伝える文書)を持たせて派遣し、絮舜にこう告げました「五日の京兆尹は結局どうなった(五日京兆竟何如)?冬月(冬季)は既に過ぎたが(冬月已尽)、延命したいか(原文「延命乎」。当時は春が来たら死刑を実行しませんでした)?」
絮舜は既に春になったのに棄市に処されました。
 
立春になり(正月朔から春になります。この年は正月朔の後に立春があったようです)、朝廷が行冤獄使者(冤罪を調査する官員)を派遣しました。
絮舜の家人は死体を車に載せて張敞の教(文書)(訴状に)連ねると、自ら使者に訴えに行きました。
使者は張敞が不辜(無罪)の者を殺戮したと上奏します。
宣帝は張敞に自便(自由)を得させたいと思い(軽い刑を与えて重刑から免れさせたいと思い)、以前、楊惲の党友として弾劾された罪を裁かせ、官を免じて庶人に落としました。
張敞は闕を訪れて印綬を返上し、闕下から亡命(逃走)しました(「自便」を得ているので逃走できました)
 
張敞が免官されて数カ月後、京師の吏民が解弛(たるんで怠ること)し、枹鼓(警報の太鼓。盗賊を意味します)がしばしば鳴るようになりました。
冀州部にも大賊が現れます。
宣帝は張敞の功効(功績成果)を思い、使者を張敞の家に送ってその場で召し出しました。
張敞は重い弾劾(無罪の者を殺した罪)を被っていたため、使者が来ると妻子家室(家族)が皆、泣きだしました。しかし張敞だけは笑ってこう言いました「我が身は亡命して民となったから、(逮捕するなら)郡吏が捕えに来るはずだ。今、(朝廷の)使者が来たのは、天子が私を用いたいと思っているからだ。」
張敞はすぐに仕度をして使者に従い、公車(官署名。上書を受理しました)に赴いて上書しました「臣は以前、幸いにも列卿の位を備え、京兆として罪を待ちましたが(幸いにも九卿の位を得て京兆尹になりましたが。原文「臣前幸得備位列卿,待罪京兆」。三輔の長は九卿と同等とされました。「罪を待つ(待罪)」というのは、「重職に就いたものの職責を全うする能力がない」という意味で、謙遜の言葉です)、掾絮舜を殺した罪に坐しました。舜は本来、臣敞がかねてから厚く遇していた吏で、しばしば恩貸(恩恵寛恕)を蒙ってきましたが、臣を弾劾する上奏があって(臣が)罷免されることになったため、(彼は)(命令書)を受けてある事を調査しに行ったのに、自分の家に帰って臥し、臣を『五日京兆』と言いました。これは恩に背いて義を忘れ、俗化(教化)を傷薄(損なうこと)させることです。臣は心中で舜が無状(善行がなく悪劣なこと)であると考え、法を曲げて誅殺しました。臣敞は不辜(無罪)を賊殺し、鞠獄(判決)を故意に不直(不正)にしたので、たとえ明法に伏しても(刑罰を受けても)、死んで恨みはありません。」
宣帝は張敞を引見して冀州刺史に任命しました。
張敞が冀州部に到着すると、盗賊が姿を消しました。
 
荀悦の『前漢孝宣皇帝紀(巻第二十)』は宣帝五鳳二年(前56年)に楊惲が失脚したため、そこで張敞の事も書いていますが、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は誤りとしています。
漢書百官公卿表下』では、張敞は神爵元年(前61年)に京兆尹になり、八年で免じられています。その場合は前年(宣帝五鳳四年54年)になります。
漢書趙尹韓張両王伝(巻七十六)』では京兆尹になって九年で罷免されたとしており、本年に当たります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
皇太子劉奭は柔仁で儒学を好みました。当時、宣帝が用いる官吏の多くは文法(法令)の吏で、刑罰を使って下の者を制御していたため、皇太子は宴席に侍った際、堂々とこう言いました「陛下は刑を用いて深すぎます(刑が厳しすぎます。刑に頼りすぎています。原文「持刑太深」)。儒生を用いるべきです。」
宣帝は顔色を変えてこう言いました「漢家には自ずから制度があり、元々覇道と王道を混在させてきた(本以霸王道雑之)。どうして徳教に純任して(徳教だけに頼って)周政西周の政治)を用いることができるか。そもそも俗儒は時宜に達しておらず、古を是として今を否定することを好む(好是古非今)。名と実において人を眩ませ(人に名と実の分別をできなくさせ)、守るべきところを知らない。どうして委任するに足るのだ。」
宣帝は嘆いて「我が家(漢朝)を乱すのは太子だ」と言いました。
 
かつて武帝儒学を独尊する姿勢を見せましたが、刑法も重視して多くの酷吏を用いました。
宣帝の時代になって酷吏は減りましたが、まだ完全に儒学の社会が成立したわけではありません。宣帝時代は徳治と法治の思想が共存した過渡期であり、儒学が完全に国学となるにはまだ時間を必要としました。
 
淮陽憲王(『資治通鑑』胡三省注によると宣帝の次子)は法律を好み、聡達で才能がありました。
また、王の母張倢伃は特に宣帝の寵幸を得ています。
そのため宣帝は太子を疎遠にして劉欣を愛し、しばしば嘆息して劉欣に「真に我が子だ」と言いました。
宣帝は常に劉欣を後継者に立てたいと思っていましたが、太子は宣帝が微細の時(貧しくて身分が低い時)にできた子で、宣帝が若い頃は許氏に頼っており、しかも即位してすぐに許后が殺されたため、太子を憐れんで廃位できませんでした。
 
久しくしてから宣帝は韋玄成を淮陽中尉に任命しました。
韋玄成はかつて爵位を兄に譲ったため(宣帝元康四年62年)、宣帝は韋玄成を淮陽国の中尉にすることで、劉欣を感化させて兄弟の節度を諭しました。
この後、太子の地位は安定しました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代214 宣帝(三十八) 馮嫽 前53年(2)