西漢時代214 宣帝(三十八) 馮嫽 前53年(2)

今回は西漢宣帝甘露元年の続きです。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
前年、匈奴呼韓邪単于が破れてから、左伊秩訾王が呼韓邪単于と謀り、臣と称して漢に入朝することを勧めました。漢に仕えて救援を求め、それを利用して匈奴を安定させるためです。
呼韓邪単于が諸大臣に意見を求めると、皆こう言いました「いけません(不可)匈奴の俗は、元々気力(勢力。力量)を上とし(貴び)、服役を下とし、馬上の戦闘によって国を為してきたので、百蛮に威名がありました。戦死とは壮士が有すことです(壮士なら戦死がつきものです。原文「戦死壮士所有也」)。今は兄弟が国を争っており、兄(郅支単于がいなくなっても弟(呼韓邪単于がいます。たとえ死んでもまだ威名があり、子孫が常に諸国の長となれます。漢は確かに強盛ですが、まだ匈奴を兼併できません。なぜ先古の制を乱し、漢に臣事して先単于を卑辱し(辱め)、諸国の笑い者になるのですか。このようにして安定できたとしても、どうしてまた百蛮の長でいられるでしょう。」
左伊秩訾王が言いました「それは違う(不然)。強弱には時というものがある。今は漢が強盛で、烏孫等の城郭諸国が皆、臣妾となった。且鞮侯単于(呼韓邪単于の曾祖父)以来、匈奴は日に日に削られて回復できなくなっており、今までは屈強(服さないこと)だったが、一日の安寧もなかった。今、漢に仕えれば安存でき、仕えなかったら危亡に陥る。どのような計がこれより勝っているのだ。」
諸大人が長い間、左伊秩訾王に対抗しましたが、呼韓邪単于は左伊秩訾王の計に従うことにしました。
衆を率いて南の辺塞に接近し、子の右賢王銖婁渠堂を漢に入侍(入朝して仕えること)させます。
 
呼韓邪単于の動きを知った郅支単于も子の右大将駒于利受を漢に送って入侍させました。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月丁巳(二十一日)、大司馬・車騎将軍・楽成侯許延寿(敬侯)が死にました。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、黄龍が新豊に現れました。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
丙申(初一日)太上皇(高帝の父の廟)で火災がありました。
甲辰(初九日)、孝文廟(文帝廟)でも火災がありました。
宣帝は五日間、素服(喪服)を着ました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
烏孫狂王(宣帝神爵二年60年参照)烏孫の風習に則り、楚主劉解憂を娶りました。
劉解憂は元々岑娶に嫁ぎ、岑娶が死ぬと翁帰靡(肥王)の妻になりました。翁帰靡との間に三男と二女ができ、長男は元貴靡、次男は万年、三男は大楽と名づけられました(宣帝本始二年72年参照)
狂王は三人目の夫で、一男を産みました。鴟靡といいます。
しかし狂王は公主(劉解憂)と不仲で、しかも暴悪だったため民心を失っていました。
漢が衛司馬魏和意と副候(副衛侯)任昌を烏孫に派遣した時、公主がこう言いました「狂王は烏孫の患苦となっており、容易に誅殺できます。」
魏和意等は計を定めて酒宴を開き、士に命じて剣で狂王を襲わせました。しかし剣は狂王の傍に振り下ろされ、狂王は傷を負ったものの馬に乗って駆け去りました。
 
狂王の子細沈瘦が兵を合わせて魏和意、任昌と公主を赤谷城烏孫国都。『資治通鑑』胡三省注によると、長安から八千九百里離れています)で包囲しました。
 
数カ月後、漢の西域都護鄭吉が諸国の兵を発して援けたため、細沈瘦は兵を解いて去りました。
漢は中郎将張遵に医薬を持たせて派遣し、狂王を治療して金帛を下賜しました。
また、魏和意と任昌を逮捕して鎖で繋ぎ、尉犂から檻車で長安に送りました。二人とも斬首されます。
 
肥王翁帰靡と胡婦匈奴人の妻)の間には烏就屠という子ができました。
狂王が負傷した時、烏就屠は驚いて諸侯と一緒に去り、北山(『資治通鑑』胡三省注によると、烏孫の北の山です)の中に住みました。烏就屠がそこで「母の実家の匈奴から兵が来る」と揚言したため、烏孫の民衆が次々に帰順しました。
後に烏就屠は狂王を襲って殺し、自ら昆彌に立ちます(ここまでは以前の出来事です)
 
この年、漢が破羌将軍辛武賢に兵一万五千人を率いて敦煌に到らせました。辛武賢は渠(水路)を通して食糧を貯え、烏孫を討伐しようとします。
 
楚主劉解憂の侍者馮嫽は史書(吏書。官署の文書。または公文書に用いられた字体、書道)の能力があり、事(『資治通鑑』胡三省注によると、内は漢の事、外は西域諸国の事)に習熟していました。
かつて馮嫽は漢の符節を持って公主の使者になったことがあり、城郭諸国は馮嫽を尊重して信用したため、馮夫人と号しました。
馮嫽は烏孫右大将の妻になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、右大将は烏孫国の官で、相大禄の下に左右大将の二人がいました。
 
右大将は烏就屠と仲が良かったため、都護鄭吉は馮夫人を送って烏就屠を説得させ、「漢兵が出征したら必ず滅亡することになるから投降した方がいい」と伝えました。
烏就屠は恐れて「小号を得て自分の居場所とすることを願います(安全を保障するために漢から小号を与えられることを願います。原文「願得小号以自処」)」と言いました。
 
宣帝は馮夫人を召して自ら詳しく状況を問いました。
資治通鑑』胡三省注は「この一件と、以前しばしば詔を下して趙充国に質問した事を観ると、『資治通鑑』が記録した一千三百余年の間、明審の君主は宣帝一人しかいなかった」と評価しています。
 
宣帝は謁者竺次、期門甘延寿を副使にして馮夫人(正使)を送らせました。馮夫人は錦車に乗り、符節を持って烏孫に帰ると、詔によって烏就屠に赤谷城の長羅侯常恵を訪ねさせました。
漢は元貴靡(肥王翁帰靡の嫡長男。劉解憂の子)を大昆彌に、烏就屠を小昆彌に立てて、それぞれに印綬を下賜します。
烏孫遠征を準備していた破羌将軍辛武賢は塞を出ることなく引き還しました。
ところが烏就屠が諸侯の民衆を全て帰らせようとしなかったため、漢はまた長羅侯常恵に三校(軍官)を率いて赤谷に駐屯させました。常恵が烏孫の人民と地界(境界)を分け、大昆彌の戸数は六万余、小昆彌の戸数は四万余と定めます。
しかし衆心は皆、小昆彌に帰しました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
冬、匈奴単于が弟の左賢王を送って朝賀させました。
 
この記述は『資治通鑑』『漢書匈奴伝下(巻九十四下)』ともありません。
匈奴単于が呼韓邪単于を指すのか郅支単于を指すのかはわかりません。
 
 
 
次回に続きます。