西漢時代215 宣帝(三十九) 呼韓邪単于の帰順 前52年

今回は西漢宣帝甘露二年です。
 
西漢宣帝甘露二年
己巳 前52
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
春正月、宣帝が皇子劉囂を定陶王に立てました。
 
漢書諸侯王表』は「十月乙亥」の事としていますが、『漢書帝紀』は「春正月」としており、『資治通鑑』は本紀に従っています。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
宣帝が詔を発しました「最近、鳳皇鳳凰と甘露が降集し、黄龍が登興し(天に登り)、醴泉(甘泉)が滂流し(溢れて流れ)、枯槀(枯木)が栄茂し、神光が並んで現れた。全て禎祥(吉祥)である(咸受禎祥)。よって天下を赦し、民算三十を減らす。諸侯王、丞相、将軍、列侯、中二千石にはそれぞれ差をつけて金銭を下賜し、民には爵一級を、女子には百戸ごとに牛酒を、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)高年(高齢者)には帛を下賜する。」
こうして天下に大赦し、民の算人頭税三十銭を減らしました。
 
漢代は十五歳になったら一算(百二十銭)人頭税を払う決まりがありました。今回の詔によって百二十銭から三十銭を減らすことになりました。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
珠厓郡が反しました。
夏四月、朝廷が護軍都尉張禄に兵を率いて討伐させました。
 
資治通鑑』胡三省注によると護軍都尉は秦代から踏襲した官で、武帝時代に大司馬に属すことになりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
御史大夫杜延年が老病を理由に罷免されました。
五月己丑(初一日)、廷尉于定国が御史大夫になりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
秋七月、宣帝が皇子(宣帝の子)劉宇を東平王に立てました。
 
漢書帝紀』では「秋九月」、『漢書諸侯王表』では「十月乙亥」としています。「七」「九」「十」は似ているので、どれか一つが正しく、他の二つは書き間違えたのだと思われます。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十二月、宣帝が萯陽宮と属玉観を行幸しました。
漢書』の注によると、萯陽宮は鄠にあり、秦文王が建てました。
属玉観は「玉で装飾されているため属玉という」という説と、「属玉」は「鷟鸑(伝説の鳥)」と同音で、観の上にこの鳥がいたため(恐らく鳥の飾りがあったため)「属玉」と呼ばれたという説と、「属玉」は「鵁鶄(あおさぎ)に似ている水鳥」という説があります。顔師古は水鳥の説が正しいとしています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、営平侯趙充国(壮武侯)が死にました。
 
これ以前に趙充国は老齢を理由に引退を請いました(乞骸骨)
宣帝は安車(座って乗る車)、駟馬(四頭の馬)、黄金を下賜して自宅に帰らせました(罷就弟)。但し朝廷で四夷(四方の異民族)に関する大議がある度に、兵謀(用兵の会議)に参与させて籌策(計策)を問いました。
漢書趙充国辛慶忌伝(巻六十九)』によると、趙充国の享年は八十六歳で、諡号は壮侯です。
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
匈奴呼韓邪単于が漢の五原塞を訪ね、国珍匈奴の珍宝)を献上して甘露三年(翌年)正月に朝見することを願い出ました。
宣帝は詔を発し、有司(官員)に呼韓邪単于を遇すための儀礼について議論させました。
丞相、御史等が皆言いました「聖王の制では、徳を施して礼を行い、京師を先にして諸夏(中原)を後にし、諸夏を先にして夷狄を後にするものです。『詩(周頌長発)』にはこうあります『礼に従って越えることなく、遍く見わたして教令が行き届く。相土(商王・成湯の先祖)は烈烈(威厳がある様子)とし、海外がそろって服従した(率礼不越,遂視既発。相土烈烈,海外有𢧵。』陛下の聖徳は天地に充塞し、光は四表(天下)を覆っています。匈奴単于は郷風慕義(向風慕義。感化を受けて義を慕うこと)したので、国を挙げて心を一つにし、珍(珍宝)を奉じて朝賀することにしました。これは古から今までなかったことです。しかし単于は正朔を加えるところではなく匈奴は漢の暦に従っておらず)、王者が客とするところなので、礼儀は諸侯王と同等で(王者の客とみなし)、『臣は死を冒して再拝します(臣昧死再拝)』と称させ、位次(序列)(夷狄なので)諸侯王の下とするべきです。」
 
太子太傅蕭望之が言いました「単于は正朔を加えるところではないので(漢の暦が及ばないので)敵国(匹敵する国。対等の国)と称し、待遇する際は不臣の礼をもってし(臣下に対する礼は使わず)、位は諸侯王の上にするべきです。外夷が稽首して藩を称したとしても、中国が讓って臣としないのは、羈縻(籠絡)の誼(義。道理)、謙亨(恭謙で徳があること)の福です。『書(恐らく逸書)』には『戎狄は荒服(遥遠の地)である(戎狄荒服)』とあります。これは彼等の来服(帰服)が荒忽(反覆多変。裏切りが多いこと)で一定していないこと(荒忽亡常)を言っているのです。もし匈奴の後嗣に突然、鳥竄鼠伏(鳥が飛び去って鼠が隠れること。離反を指します)があり、朝享(朝見貢物)を欠くことになっても、(臣下とみなしていなければ)畔臣(叛臣)にはなりません。これは万世の長策となります。」
 
宣帝は蕭望之の意見を採用して詔を発しました「五帝三王は(荒外の人には)礼を施さず、政も及ぼさなかったと聞いている。今回、匈奴単于が北蕃の臣を称して正朔(翌年正月朔)に朝見することになった。しかし朕(の能力)が至らないので、徳が広くを覆うことができない。よって客礼によって遇し、単于の位を諸侯王の上とさせ、賛謁(謁見)では臣と称すだけで名を告げないことにする(通常の礼では「臣某」というように、「臣」の後に「名」を告げましたが、呼韓邪単于は免除されました)。」
 
宣帝は詔を発し、車騎都尉韓昌に呼韓邪単于を迎え入れさせました。
通過する七郡から二千騎を動員して道に並べました。
資治通鑑』胡三省注によると、七郡は五原、朔方、西河、上郡、北地、馮翊の六郡と長安を指します。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代216 宣帝(四十) 石渠閣会議 前51年