西漢時代216 宣帝(四十) 石渠閣会議 前51年
今回は西漢宣帝甘露三年です。
西漢宣帝甘露三年
庚午 前51年
春正月、宣帝が甘泉を行幸し、泰畤で郊祀しました。
宣帝は呼韓邪単于に冠帯・衣裳、黄金璽・盭綬(盭は草の名です。金璽・盭綬は諸侯王の印綬です)、玉具剣(玉で装飾した剣)、佩刀、弓一張・矢四発(『資治通鑑』胡三省注は「一発は矢十二本」という説と、「発」は「放」の意味で、「一放は一矢」という説を載せています。前者なら「矢四発」は「矢四十八本」で、後者なら「矢四本」です)、棨戟(儀仗用の戟)十(本)、安車(座って乗る小車)一乗、鞍勒(馬具)一具(そろい)、馬十五頭(『資治通鑑』と『漢書・匈奴伝下(巻九十四下)』では「馬十五匹」、『漢書・宣帝紀』では「駟馬」です)、黄金二十斤、銭二十万、衣被(衣服と布団)七十七襲(そろい)、錦繡、綺縠(絹織物)、雑帛(各種の帛布)八千匹(雑帛だけで八千匹ではなく、錦繡、綺縠、雑帛を併せて八千匹だと思います)、絮(綿)六千斤を下賜しました。
朝見の礼が終わってから、宣帝は使者に単于を案内させて長平の宿所に先行させました。
『漢書・宣帝紀』は「有司(官員)に単于を案内させ、先に長安の邸に就かせて長平で宿した」と書いています。しかし『漢書・宣帝紀』の注釈によると、長平は長安から五十里離れています。呼韓邪単于が長安の邸に入るのは後のことなので、恐らく『宣帝紀』は誤りです。
あるいは、先に長安の邸に案内してから、長平に移動して宿泊したのかもしれません
諸蛮夷の君長や王侯数万人がそろって渭橋の下で道を挟んで並び、宣帝を迎えました。
宣帝が渭橋に登ると一斉に万歳を唱えます。
宣帝は建章宮で酒宴を開き、単于をもてなして珍宝を見せました。
二月、宣帝が呼韓邪単于を帰国させました。
しかし呼韓邪単于が漢に朝見してからは、皆、漢を尊重するようになりました。
『資治通鑑』胡三省注によると、麒麟閣は未央宮にありました。一説では武帝が麒麟を得た時にこの閣が造られ、その時の様子が描かれたため麒麟閣と呼ばれるようになりました。または、蕭何によって建てられたともいいます。
麒麟閣には功臣の容貌が描かれ、官爵と姓名が記されました。但し霍光だけは名を書かず、「大司馬大将軍博陸侯姓霍氏」と記します。
それぞれ当世に名が知られるほどの功徳があったので、表彰宣揚し、漢室の中興を輔佐した功績が方叔、召虎、仲山甫(三人とも西周宣王に仕えた名臣で、文武の功を挙げて宣王の中興を助けました)に並ぶことを明らかにしました。
『資治通鑑』胡三省注によると、帝王が功臣の肖像を描くのはここから始まりました。胡三省は「魏相と丙吉が霍光、張安世、韓増、趙充国の下にあることから、漢の丞相の地位が中朝(内朝)の諸将軍の後だったことがわかる」と書いています。武帝以降、皇帝の傍に仕える内朝の権力が大きくなり、丞相を筆頭とする外朝は権勢を削られていきました。
宣帝が詔を発しました「最近、鳳皇(鳳凰)が新蔡に集まり(止まり)、群鳥が四面に列をなし、全て鳳皇を向いて立ち、万を数えた。よって汝南太守に帛百匹を下賜し、新蔡の長吏、三老、孝弟(悌)力田、鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りがない老人)にもそれぞれ差をつけて(帛を)与える。民には爵二級を下賜し、今年の租は出す必要がない(田租を免じる)。」
太子太傅・蕭望之等が議論の内容を平奏(分析してから上奏すること)し、宣帝が自ら皇帝の権限で決定を下しました(称制臨決)。
その結果、梁丘賀(上述の麒麟閣十一功臣の一人)の『易』、大‧小夏侯(西漢の夏侯勝と夏侯建。親戚関係にあります)の『尚書』、穀梁赤(戦国時代・魯人)の『春秋(穀梁伝。実際は穀梁赤一人の手によるものではなく、西漢時代までに複数の儒者によって編纂されたと考えられています)』を標準とし、それぞれに博士を置くことにしました。
そこで宣帝は儒者を集めて経典の解釈について議論させました。
『漢書・儒林伝(巻八十八)』が儒者・施讎(字は長卿)について書いており、そこで甘露年間に石渠閣で諸儒が五経の同異について議論したことに触れています。『儒林伝』の注によると、石渠閣は未央殿北にあり、秘書を管理していました。
この会議は石渠閣で行われたため、「石渠閣会議」といいます。
そこで公主・劉解憂が宣帝に上書しました「年老いて故郷を思うので(年老土思)、骸骨を帰らせて漢地に埋葬できることを願います(願得帰骸骨葬漢地)。」
宣帝は劉解憂を憐れんで迎え入れました。
冬、劉解憂が京師に入りました。劉解憂は楚王・劉戊の孫ですが、宣帝は公主(皇帝の娘)の礼制で遇します。
劉解憂は二年後に死にました。
漢は馮夫人を派遣しました。
宣帝はこれに同意します。
星靡の死後は子の雌栗靡が立ちました。
司馬良娣は太子にこう言いました「妾(私)の死は天命ではありません。諸娣妾や良人(娣妾は恐らく太子の妻妾を指します。良人は皇帝の妃妾です。『資治通鑑』胡三省注によると、良人は秩八百石とみなされ、左庶長の爵位と同等とされました)が代わる代わる私を祝詛(呪詛)して殺したのです。」
太子は司馬良娣の言葉を信じました。
その結果、元城の人・王政君が選ばれて太子宮に送られます。
宣帝はこの孫をとても愛して自ら「驁」と命名し、字を「大孫」と定め、常に左右に置きました。劉驁は後の成帝です。
次回に続きます。