西漢時代218 元帝(一) 元帝即位

今回から西漢元帝の時代です。
 
孝元皇帝
宣帝の太子で劉奭といいます。母は共哀許皇后です。
通常、夫人は夫の諡号に従うものなので、「孝宣許皇后」と呼ばれるべきですが、毒殺された事を憐れみ、共哀という諡号が贈られました。「共」は「恭」に通じます。
 
以下、『漢書元帝紀』からです。
元帝・劉奭は宣帝が微賎(庶民)だった頃、民間で生まれました。劉奭が二歳の時に宣帝が即位し、八歳で太子に立てられました。
臣瓉はここから逆算して「元帝は二十七歳で即位し、在位年数は十六年で、享年は四十三歳だった」としています。
顔師古注はこう書いています「宣帝が即位した翌年に改元して本始元年(前73年)になった。本始年間は四年で終わり、改元して地節になった。宣帝は地節三年(前67年)に劉奭を皇太子を立てたので、もし宣帝即位の年に劉奭が二歳だったとしたら、太子になった時は九歳である。但し、宣帝は昭帝元平元年(前74年)七月に即位したが、『漢書外戚伝上(巻九十七上)』では許皇后が元帝(劉奭)を生んで数カ月後に宣帝が帝位に立ったとしている。よって宣帝が即位した時、太子の年齢が二歳だったとは限らない。」
 
成長した皇太子劉奭は柔仁で儒学を好みました。当時、宣帝が用いる官吏の多くは文法(法令)の吏で、刑罰を使って下の者を制御していました。大臣楊惲、蓋寬饒等が刺譏(風刺)の辞語を罪とみなされて誅殺されています。
そこで皇太子は宴席に侍った際、堂々とこう言いました「陛下は刑を用いて深すぎます(刑が厳しすぎます。刑に頼りすぎています。原文「持刑太深」)。儒生を用いるべきです。」
宣帝は顔色を変えてこう言いました「漢家には自ずから制度があり、元々覇道と王道を混在させてきた(本以霸王道雑之)。どうして徳教に純任して(徳教だけに頼って)周政西周の政治)を用いることができるか。そもそも俗儒は時宜に達しておらず、古を是として今を否定することを好む(好是古非今)。名と実において人を眩ませ(人に名と実の分別をできなくさせ)、守るべきところを知らない。どうして委任するに足るのだ。」
宣帝は嘆いて「我が家(漢朝)を乱すのは太子だ」と言いました。
この後、宣帝は太子を遠ざけて淮陽王劉欽(憲王)を寵愛し、「淮陽王は明察で法を好んでいる。我が子に相応しい」と言うようになりました。
また、淮陽王の母張倢伃も特に宣帝の寵幸を得ていました。
宣帝は太子に代えて劉欣を後継者に立てたいと思いましたが、宣帝が若い頃は許氏に頼っており、共に微賎の身から協力して立ち上がったため、許氏を裏切ることはできませんでした(宣帝甘露元年53年にも述べました)
 
宣帝黄龍元年(前49年)十二月、宣帝が死にました。
癸巳(二十六日)、太子・劉奭が皇帝の位に即き、高廟を拝謁しました。
太后(上官氏)を尊んで太皇太后にしました。
 
太子・劉奭は幼い頃に実母(許皇后)を失ったため、王皇后に養われていました。即位した元帝は王皇后を皇太后にしました。
元帝の皇后も王氏(王政君)だったため、宣帝の王皇后元帝時代の王皇太后は王政君と区別するために邛成王皇后と呼ばれます。邛成というのは王皇后の父王奉光(邛成共侯)の食邑です(宣帝元康二年64年参照)
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代219 元帝(二) 貢禹 前48年