西漢時代219 元帝(二) 貢禹 前48年

今回は西漢元帝初元元年です。
 
西漢元帝初元元年
癸酉 前48
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月辛丑(初四日)、孝宣皇帝を杜陵に埋葬しました。
資治通鑑』胡三省注によると、杜陵は長安の南五十里にあります。
 
諸侯王、公主、列侯に黄金を、二千石以下の官吏に銭帛を下賜しました。地位によって与えられた額には差があります。
天下に大赦しました。
 
[] 『漢書元帝紀』『漢書外戚恩沢表』と『資治通鑑』からです。
三月、皇太后(王氏。元帝を養いました)の兄で侍中中郎将の王舜を安平侯に封じました。
丙午(初十日)、王氏(王政君)を皇后に立て、皇后の父王禁を陽平侯に封じました。

[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
三輔、太常、郡国の公田および苑の中で、省ける場所を利用して貧民の救済に充てました(以三輔、太常、郡国公田及苑可省者振業貧民)
資治通鑑』胡三省注によると、太常は諸陵邑を管理しており、管轄する県邑(諸陵がある県邑)には公田や苑がありました。
 
また、貲(財産)が千銭に満たない者には種穀物の種や食糧)を賦貸(「賦」は与えること、「貸」は貸し出すことです)しました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
元帝が外祖父にあたる平恩戴侯許広漢(許皇后の父)の同産弟(同母弟)の子中常侍許嘉を平恩侯に封じました。
漢書外戚伝上(巻九十七上)』によると、許嘉は許延寿の中子(長子と末子以外の子)です(許延寿は許広漢の弟です)
資治通鑑』胡三省注によると、許広漢は腐刑宮刑を受けたため、後継者がいませんでした。そこで許嘉に平恩侯を継がせました。
侍中や中常侍は加官(兼任の官)です。西漢時代は士人を用いましたが、東漢時代は宦者が中常侍になりました。
 
[] 『漢書元帝紀』からです。
夏四月、元帝が詔を発しました「朕は先帝の聖緒(帝王の系統)を継承し、宗廟を奉じることになったので、戦戦兢兢としている。最近、地がしばしば動いて静まらないので、天地の戒めを懼れているが、その理由がわからない。田作(農業)の時に当たり、朕は蒸庶(民衆)の失業(本業を失うこと)を憂いるので、光禄大夫(姓氏は不明です)等十二人を臨遣(皇帝自ら指示を与えて派遣すること)して天下を循行させ、耆老(老人)鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)困乏・失職(失業)の民を存問(慰労)し、賢俊を延登(招いて登用すること)して側陋(微賎の者)を招顕(招いて顕揚すること)し、こうすることで風俗の化(教化の状況)を観覧する。相守二千石(相は諸侯王の相、守は郡守です)が正躬労力し(身をもって尽力し)、教化を宣明して、誠に万姓(万民)を親しませることができれば、六合の内が和親し、あるいは憂いがなくなるだろう。『書尚書益稷)』にこうあるではないか『股肱(帝王を補佐する重臣は賢良だ。庶事(万事)は安康だ(股肱が賢良なら万事が安寧になる。原文「股肱良哉,庶事康哉」)。』天下に布告して朕の意を明らかに知らしめよ。」
 
元帝がまた詔を発しました「関東は今年の穀物が不作で(穀不登)、民の多くが困乏している。よって郡国に令を下す。災害を被って甚だしい者は租賦を出す必要がない。江海陂湖(沢や湖)園池で少府に属す場所は貧民に貸し、租賦を取らない。宗室で属籍がある者(皇室に籍がある者)には馬一匹(頭)から二駟(八頭)を下賜し、三老と孝者には帛五匹を、弟(悌)の者と力田には三匹を、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)には二匹を、吏民には五十戸ごとに牛酒を与える。」
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月、民が疾疫に苦しんでいるため、元帝は太官に命じて膳(皇帝の食事)を削り、楽府の員を減らし、苑馬を省くことで困乏の救済に充てさせました。
資治通鑑』胡三省注によると、楽府は武帝が設立し、凡そ八百二十九人が所属していました。
馬を飼う諸苑は三十六カ所にあり、北辺と西辺に分かれて三十万頭を養っていました。
 
[] 『漢書元帝紀』からです。
秋八月、上郡属国の降胡匈奴から投降した者)一万余人が逃亡して匈奴に入りました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋九月、関東の十一の郡国で大水(洪水)があり、飢饉に襲われました。
周辺の郡から金銭や穀物を輸送して互いに救済しました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
元帝は以前から琅邪の王吉と貢禹(『資治通鑑』胡三省注によると、貢姓は孔子の弟子子貢の子孫です)が明経潔行(経文に精通していて行いが正しいこと)だと聞いていたため、使者を送って二人を招きました。
しかし王吉は道中で病死してしまいます。
貢禹は朝廷に入って諫大夫に任命されました。
 
元帝は謙虚な態度でしばしば政事について問いました。
貢禹が上奏して言いました「古の人君は節倹しており、収入の十分の一を税とするだけで(什一而税)、他の賦役がなかったので、各家が自給して人々は充足していました(家給人足)。高祖、孝文、孝景皇帝は、宮女が十余人を越えず、厩馬も百余頭しかいませんでした。しかし後世になると争って奢侈になり、次第にひどくなっていきました(転転益甚)。そして臣下も徐々にそれを放效(模倣)するようになりました。
臣の愚見によるなら、太古のようにするのは困難ですが、少しでも古に倣って自らを節するべきです。今現在、宮室(宮殿)は既に完成しているのでどうしようもありませんが、それ以外は全て減損(削減)できます。以前は斉の三服官(皇室の衣服を作る官署です。三服は春冬の服です)が輸送する物は十笥(竹箱)に過ぎませんでした。しかし今の斉三服官は作工(工人)がそれぞれ数千人おり、一歳(年)の費用は鉅万を数えます。粟を食べる厩馬は万匹(頭)になろうとしています。武帝の時、更に多くの好女(美女)集めて数千人に上り、それによって後宮を満たしました。(武帝)天下を棄てるに及んだ時は武帝崩御の時は。原文「及棄天下」)、多数の金銭財物を副葬し、鳥獣、魚鼈(「鼈」はすっぽん)も百九十物(種類)を数えました。また後宮の女を全て園陵に置きました。孝宣皇帝の(埋葬の)時に至っても、陛下は言(批難)があることを嫌い(先帝の埋葬を疎かにしたという批難を恐れ。原文「悪有所言」)、群臣も故事(前例)に従いました(宣帝の埋葬も武帝の時に倣って厚くしました)。とても心が痛いことです(甚可痛也)
これらの事が天下を承化(感化)しているため、妻を娶る時は皆、度(節度)を大きく越えています。諸侯の妻妾は、ある者は数百人にも及び、豪富吏民が養う歌者も数十人に至り、そのため内は怨女が多く、外は曠夫(家が空の夫。独身の男)が多くなっています。衆庶(庶民)が葬埋するに及んでは、皆、地上を空虚にして地下を充実させています(地上の大量な物資を使って副葬品にしています)。この過ちは上(天子)から生まれており、全て大臣が故事(前例)に則っていることが罪になっています。
よって、陛下が古道を深察し、倹約の者に従うことを願います。乗輿服御器物を大いに減損して三分の二を除きます。後宮では賢者を選んで二十人だけ留め、残りは全て帰らせます。諸陵園の女(皇帝の死後、墓陵を守っている宮女)に対しては、子がいない者は全て送り出すべきです。厩馬が数十匹(頭)を越える必要はありません。長安城南の苑地だけを留めて田猟の囿とします。今は天下が饑饉に苦しんでいる時です。自ら大いに損減して民を救い、天意に沿おうとしなくてもいいのですか。天が聖人を生むのは万民のためです。聖人一人に自らの娯楽とさせるためではありません。」
 
元帝は貢禹の言を嘉して採用し、詔を発しました「最近、陰陽が調和しないため、黎民(民衆)が飢寒に苦しみ、保治(保安。保全。生活を守ること)できなくなっている。(朕の)徳が浅薄なため、旧貫の居(先帝の住居。皇宮)を充たすには足りない。よって令を下す。諸宮館で御幸が稀な場所は繕治(修築)してはならない。太僕は馬に食べさせる穀物を減らし、水衡は獣に食べさせる肉を省け(『漢書元帝紀』顔師古注は「減は減らすこと、省は全て除くこと」と注釈しています)。」
 
資治通鑑』胡三省注によると、太僕は輿馬(車馬)を管理する官です。天子には六厩があり、未央、丞華、輅軨、騎馬、騊駼、大厩といいました。全て万を数える馬がいます。
水衡都尉は上林苑を管理しました。禽獣を飼っています。
 
資治通鑑』の編者司馬光は貢禹を批判してこう言っています「忠臣が君に仕える時は、(主君に対して)困難な事を責めれば(指摘すれば)、容易な事は労さなくても正され、短所を補えば、長所は勧めなくても遂行されるものだ。孝元は即位したばかりで、虚心になって貢禹に質問した。よって貢禹は急とする事を優先し、緩とする事を後にするべきだ。ところが、優游不断(優柔不断)で讒佞の臣が権勢を用いているのが当時の大患であるのに、貢禹はこれに言及しなかった。恭謹節倹は孝元の素志(元からの意志)であるのに、貢禹はこれについて真剣に語った。なぜであろうか(何哉)。貢禹の智が(大患を)知るに足らなかったのなら、どうして賢人と呼ばれたのだろう。知っていたのに言わなかったのなら、その罪は更に大きい。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴呼韓邪単于が再び漢朝廷に上書し、民衆の困乏を訴えました。
元帝は雲中郡と五原郡に詔を発して穀物二万斛を匈奴に輸送させました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
この年、漢が初めて戊己校尉を置き、車師故地で屯田させました。
車師の地は宣帝時代に匈奴に譲りましたが、匈奴が漢に帰順したため、車師の故地で屯田が再開されました。
 
「戊己校尉」の「戊己」について『漢書百官公卿表上』に顔師古の解説があります。
十干のうち、甲乙丙丁庚辛壬癸にはそれぞれ方位がありました。甲乙は東方、丙丁は南方、庚辛は西方、壬癸は北方です。しかし戊と己には特定の方位がありません。今回、西域に置かれた校尉は常駐する治所がなかったため、戊己を官名にしました。戊校尉と己校尉がいました。
一説では、戊己は中心にいて四方を治めます。今回置かれた校尉も西域の中心に置かれて諸国を鎮撫したため、戊己校尉と呼ばれました。
資治通鑑』胡三省注は、車師の地は西域三十六国の中心ではないので、顔師古の前の説が正しいとしています。
 
 
 
次回に続きます。