西漢時代221 元帝(四) 張敞 前47年(2)
また、水衡禁囿、宜春下苑、少府の佽飛外池、厳籞・池田を貧民に貸し与えました。
禁圃(皇室の園林)は水衡都尉に属し、令と丞が管理していました。「水衡禁囿」は恐らく禁圃を指します。
「宜春下苑」は宜春苑ともいいます。近くに宜春宮がありました。
「厳籞」は射苑、「池田」は苑内の田地です。
元帝が更に詔を発しました「賢聖が位に居たら、陰陽が和し、風雨が時に順じ、日月に光があり、星辰が静まり(星の位置が定まり)、黎庶(民衆)が康寧になり、老いてその命(寿命)を終わらせる(考終厥命)ことができると聞いている。今、朕は恭しく天地を継承し、公侯の上に託されているが、明においては照らすことができず(明不能燭)、徳においては安定させることができず(徳不能綏)、災異が並んで至り、連年止むことがない。二月戊午(二十八日)、隴西郡で地震があり(上述)、太上皇廟殿の壁の木飾を毀落(脱落)させ、豲道県の城郭、官寺(官署)および民の室屋(家屋)を壊敗(破壊)して多くの人を圧殺した。山が崩れて地が裂け、水泉が涌き出した。天が災を降し、朕を頻繁に震驚させている(原文「震驚朕師」。顔師古注によると、「師」は「衆(多い。頻繁)」の意味です)。治(政事)に大虧(大きな欠陥)があるので、咎がここに至っている。夙夜(朝晩)兢兢としているが、大変に通じず(大きな異変の原因を知ることができず)、深く鬱悼(憂鬱心痛)するがまだその序(秩序。規律)を知らない。最近、数年にわたって不作なため(間者歳数不登)、元元(民衆)が困乏して飢寒に勝てず、刑辟(刑罰)に陥っている。朕は甚だこれを憐れむ。
よって、郡国で地が動いて災を被り甚だしい者(郡国で地震のために甚だしい被害を被った者)は租賦を出す必要がない。天下を赦す。蠲除(廃除)・減省して万姓(万民)の便にできることがあったら條奏(一つ一つ上奏すること)せよ。憚る必要はない(毋有所諱)。丞相、御史、中二千石は茂材(秀才)・異等(特別な才能)・直言極諫の士を挙げよ。朕が親覧(皇帝自ら確認すること)する。」
待詔・鄭朋が太原太守・張敞を推挙して、「先帝の名臣なので、皇太子の傅として補佐させるべきです」と言いました。
元帝は蕭望之に意見を求めます。
蕭望之は、張敞は能吏(能力がある官吏)であり、煩乱(混乱)した状況を治めさせることができるものの、材軽(軽薄。厳粛ではないこと)なので師傅の器ではないと考えました。
元帝は使者を送って張敞を招き、左馮翊に任命しようとしましたが、ちょうどこの時、張敞は病死しました。
張敞には威儀(威厳ある態度)がなく、ある時は朝会が終わると馬を走らせて章台街(妓院が並ぶ街)に行き、御吏(馬を御す官吏)に馬を駆けさせ、自らも便面(扇)で馬を叩きました。
このような事があったため、蕭望之は張敞を材軽と評価しました。
元帝が詔を発しました「国が興隆する時は、師を尊んで傅を重んじるものである。故(元)前将軍・望之は八年にわたって朕の傅となり、経書を教導した。その功は茂(美)である。よって関内侯の爵位と食邑八百戸を下賜し、朝朔望の特権を与える。」
朝朔望というのは毎月朔と十五日だけ朝見すればいいという特権です。
『漢書・元帝紀』はこの詔を冬の事としています。しかし『漢書・楚元王伝(巻三十六)』には「その春、地震があり、夏、客星が昴と巻舌の間に現れた。元帝が感悟し、詔を下して蕭望之に関内侯の爵位を下賜した」とあり、『漢書・蕭望之伝(巻七十八)』も蕭望之が前将軍・光禄勳の印綬を没収されてから(本年春)数カ月後(後数月)に元帝の詔を書いてます。
六月、関東を飢饉が襲い、特に斉地で大きな被害が出ました。
次回に続きます。