西漢時代222 元帝(五) 蕭望之の死 前47年(3)

今回は西漢元帝初元二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
秋七月己酉(中華書局『白話資治通鑑』は「己酉」を恐らく誤りとしています)、再び地震がありました(地復震)
 
漢書楚元王伝(巻三十六)』は「冬に再び地震があった(冬地復震)」としていますが、『漢書元帝紀』では七月の詔で「一年の中で地が再び動いた」と言っており、荀悦の『前漢孝元皇帝紀(巻第二十一)』も「七月己酉」に地震があったとしているので、『資治通鑑』も七月に地震を書いています。
 
以下、『漢書元帝紀』から七月(日は書かれていません)の詔です「連年の災害のため、民に菜色(飢色。顔色が悪いこと)があり、(朕は)心を痛めている(惨怛於心)。既に詔によって吏(官吏)に倉廩を空にさせ、府庫を開いて振救(救済)するように命じ、寒者には衣服を下賜した。今秋も禾(稲)麦がすこぶる損傷している。しかも一年の中で地が再び動き、北海の水が溢れて人民を流殺した。陰陽が和さないが、その咎はどこにあるのだ。公卿は何をもってこれを憂いるのか(どう対処するつもりだ)。意を尽くして朕の過失を述べよ。隠してはならない(靡有所諱)。」
 
[十一] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
元帝が再び周堪と劉更生を招き、諫大夫に任命しようとしました。
しかし弘恭と石顕の進言によって二人は中郎になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、諫大夫の秩は比八百石で、中郎の秩は比六百石です。どちらも光禄勳に属します。
 
元帝は蕭望之を尊重しており、その能力に頼るために丞相に任命しようとしました。
当時、弘恭、石顕および許氏や史氏の兄弟、侍中、諸曹が皆、蕭望之等に側目(正面から見ないこと。恐れや怨みを表します)していたため(蕭望之等と対立していたため)、劉更生が自分の外親(母側の親族)を使って変事について上書させました。内容はこうです「地震は恐らく弘恭等のために起きたのであり、三独夫(蕭望之、周堪、劉更生。「独夫」は匹夫の意味です)のために動いたのではありません。臣の愚見によるなら、恭、顕を退けて蔽善(善良を妨害すること)の罰を明らかにし、望之等を進めて賢者の路を通じさせるべきです。このようにすれば、太平の門が開かれ、災異の源が塞がれるでしょう。」
上書が提出されましたが、弘恭と石顕は劉更生が上書させたと疑い、姦詐を追求することを請いました。その結果、上書した者が認めたため、劉更生は逮捕されて獄に繋がれ、再び罷免されて庶人になりました。
 
この頃、蕭望之の子である散騎中郎(『資治通鑑』胡三省注によると、中郎が本来の官で散騎は加官です)伋も上書して、以前、蕭望之が罷免された事件の冤罪を訴えました。
元帝は有司(官員)に検討させます。
官員が上奏しました「望之が以前坐した罪は明白であり、誰かが譛訴(讒言によって訴えること)したのではありません。それなのに子に上書させて亡辜(無罪)の詩を引用しました(『漢書蕭望之伝』にも詩の詳細は書かれていません。『資治通鑑』胡三省注は『小十月之交』の「無罪無辜,讒口嗷嗷」ではないかとしています)。大臣の礼を失っており不敬なので、逮捕を請います。」
弘恭、石顕等は蕭望之がかねてから高節を抱いており、屈辱を受けることができないと知っていたため、敢えて元帝にこう言いました「望之は以前、幸いにも坐すことなく、また爵邑を下賜されましたが、過ちを悔いて罪に服すことなく、逆に深く怨望を持ち、子に上書させて非を上(陛下)に帰させました。師傅の地位に頼っているので、終生坐すことはないと思っています(刑を得ることがないと思っているので反省できずに怨恨の心が生まれています)。牢獄において望之を屈させ、その怏怏(不満な様子)とした心を塞がなければ、聖朝(皇帝)が施す恩を厚くできません(いくら恩恵を与えても、臣下が怨恨の心を抱いていては意味がありません)。」
元帝が言いました「蕭太傅はかねてから剛(剛直)だ。吏に就くことを承知するはずがない。」
石顕等が言いました「人命こそ至重(最も重要)なものです。望之が坐すのは語言による薄罪(軽い罪)なので(命に関わることではないので)、憂いる必要はありません。」
元帝は石顕等の上奏に同意しました。
資治通鑑』胡三省注は「孝元元帝はここに至っても恭顕の姦を見破ることができなかった。不明というべきである」と書いています。
 
冬十二月、石顕等が詔に封をして謁者に渡しました。蕭望之を召して直接詔を手渡しするように命じます。
同時に、太常に命じ、急いで執金吾の車騎を駆けさせ、蕭望之の邸宅を包囲させました。
資治通鑑』胡三省注によると、太常は諸陵がある県を管理し、執金吾は京師を警護しました。蕭望之はこの時、杜陵に住んでいたため、太常に命じて執金吾の車騎を指揮させました。
 
朝廷の使者が来て蕭望之を召しました。
蕭望之は魯国出身の門下生朱雲に意見を聞きます。朱雲は高節を好む士だったため、蕭望之に自裁(自殺)を勧めました。
蕭望之は天を仰いで嘆息し、こう言いました「私はかつて将相に位を備え(将相の位に就き)、年は六十を越えた。老いてから牢獄に入ってとりあえずの生活(命)を求めるのは鄙(卑怯。卑劣)ではないか。」
蕭望之が朱雲の字を呼んで言いました「游よ(游が字です。親しみを表します)、速く薬を調合して来なさい(趣和薬来)。私の死を久しく留めてはならない(私が死ぬのを先に延ばしてはならない。原文「無久留我死」)。」
蕭望之は鴆毒を飲んで自殺しました。
 
蕭望之の自殺を聞いた元帝は、驚いて手を打ち、「始めから牢獄に就くことはないと疑ったではないか。やはり私の賢傅を殺してしまった!」と言いました。
この時、太官がちょうど昼食を持ってきましたが、元帝はそれを退けさせ、蕭望之のために涕泣しました。元帝の悲哀が左右の者の心も動かします。
元帝は石顕等を呼び、考えが充分でなかったことを譴責しました。石顕等は冠を脱いで謝罪し、久しくしてやっと赦されます。
 
この後、元帝は蕭望之を想って忘れたことがなく、四季ごとに使者を送って蕭望之の冢(墓)を祭祀させ、元帝が死ぬまで続きました。
 
資治通鑑』の編者司馬光元帝を評してこう書いています。
「孝元元帝の国君としての姿はとてもひどい(甚矣)。欺かれやすくて悟るのが困難だった。恭顕が蕭望之を讒言して訴えた時、その邪説詭計には確かに明察できないものもあった。しかし蕭望之は獄に就くことに同意しないだろうと先に疑ったのに、恭顕は憂いる必要がないと言い、その結果、やはり自殺させてしまった。ここに至って恭顕の欺瞞は明らかになったはずだ。中智の君(中等の智力の国君)なら、誰もが激昂発奮して邪臣に罰を与えるだろう。ところが孝元はそうしなかった。涕泣して食事をしないことで望之を悼んだが、ついに恭顕を誅殺できず、免冠して謝罪させただけだった。このようなことで姦臣を懲らしめることができるだろうか。これが恭顕にその邪心をほしいままにさせて、憚るものをなくさせた原因である。」
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
この年、中書令弘恭が病死し、中書僕射石顕が中書令になりました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
かつて武帝が南越を滅ぼして珠厓郡と儋耳郡を置きました武帝元鼎六年111年参照)。二郡とも海中の洲(島)の上にあります(現在の海南島です。儋耳郡は昭帝始元五年82年に廃されました)
吏卒は全て中国人(中原の人)で、現地の民を頻繁に侵陵(侵犯凌辱)しました。
現地の民も暴悪で、外との交通が遮断されているため、しばしば官吏の禁制を犯し、数年に一度は叛して官吏を殺しました。その都度、漢の朝廷は兵を発して平定しましたが、武帝が郡を置いてから昭帝が即位するまでの二十余年間で六回も反乱が起きました。
宣帝の時代になってからも叛しました。
資治通鑑』胡三省注によると、宣帝神爵三年(前59年)に珠厓三県が叛し、甘露元年(前53年)にも九県が叛しました。
資治通鑑』本文では宣帝甘露二年(前52年)に珠厓郡が叛したため、漢の護軍都尉張禄が討伐しています。
 
元帝が即位した翌年(初元元年)、珠厓郡山南県で反乱が起きたため、兵を発して討伐しました。しかし諸県が更に叛し、年を越えても平定できませんでした。
元帝は広く群臣の意見を集め、大軍を発しようとしました。
 
待詔(金馬門待詔。金馬門で詔を待っている官員)の賈捐之が出兵に反対しました。賈捐之は賈誼の曾孫です。
賈捐之の上奏文は『漢書厳朱吾丘主父徐厳終王賈伝下(巻六十四下)』にあります。長いので別の場所で紹介します。

西漢時代 賈捐之の進言


元帝は丞相や御史の意見を求めました。
御史大夫陳万年は討伐を主張します。
しかし丞相于定国はこう言いました「以前、兵を興してこれを撃ち、年を連ねましたが、護軍都尉、校尉および丞の十一人のうち、還った者は二人しかおらず、卒士および転輸(物資輸送)の死者は万人以上になり、費用も三万万余に上ったのに、まだ全て降すことができません。今は関東が困乏し、民が苦難のため動揺しているので(民難揺動)、捐之の議が是です(賈捐之の見解の通りです)。」
元帝はこれに従うことにしました。
 
 
 
次回に続きます。