西漢時代223 元帝(六) 珠厓廃郡 前46~45年
乙亥 前46年
元帝が令を下し、諸侯王の相の位を郡守の下と定めました。
珠厓郡山南県が叛したため、元帝が広く群臣の意見を求めました。
元帝が詔を発しました「珠厓虜が吏民を殺し、背畔(背反)して逆を為した。今、廷議した者は、あるいは撃つべきだと言い、あるいは守るべきだと言い、あるいは棄てることを欲し、意見がそれぞれ異なっている。朕は日夜、議者の言を考え、威が行われないことを羞じたらこれを誅したいと思い、躊躇して難を避けることを考えたら(狐疑辟難)屯田を守ろうと思い、時変に通じたら(時変を考慮したら)万民の事を憂いている。万民の饑餓と遠蛮を討伐しないことを較べたら、どちらの危難が大きいだろう。そもそも宗廟の祭(祭品)も凶年のため備わっていないのに、どうして不嫌(不慊。満足できないこと)の辱(珠厓を平定できず、威信を行えないという恥辱)を避けることができるだろう。今、関東が大困し、倉庫は空虚になり、救済することができないのに、また兵を動かしたら、民を労すだけでなく、凶年が後に続いて至るだろう。よって珠厓郡を廃すことにする。民で義を慕って内属を欲する者がいたら(内郡に住みたいという者がいたら)自由に住ませる。それを欲しない者には、強制してはならない。」
こうして珠厓郡が廃止されました。
元帝が詔を発しました「最近、孝武園館に火災が降り、朕は戦栗(戦慄)恐懼している。変異を照らせず(恐らく「変異の原因を明らかにできない」という意味です。原文「不燭変異」)、その咎は朕の躬(身)にある。群司(群臣)もまだ敢えて朕の過失を極言せず、ここに至っているが、どうやって悟ることができるだろう(将何以寤焉)。百姓はなお凶阨(災害)に遭っているのに、それを救済することはできず、そのうえ苛吏(厳酷な官吏)が煩擾(煩わしく面倒な事)を加えて微文(細かい法令)によって拘牽(束縛)しているため、性命を永終できない(長生きして天寿を全うできない)。朕はこれを甚だ憐れむので、天下を赦すことにする。」
こうして大赦が行われました。
夏、旱害がありました。
長沙王は景帝の子・劉発が立てられました。これを定王といいます。
六月、元帝が詔を発しました「安民の道とは本来、陰陽に基くものであると聞いている。最近、陰陽が錯謬(混乱。錯誤)し、風雨が時に順じていない。朕は不徳なので、群公の中に敢えて朕の過失を言及する者がいることを願ったが、今はそうなっていない。とりあえず迎合するだけで(媮合苟従)、未だに極言しようとしないので、朕は甚だ憂いている(甚閔)。
烝庶(庶民)の饑寒を考えると、父母妻子から遠く離れ、非業の作(本業ではないこと。または重要ではないこと)に労し、不居の宮(皇帝が住んでいない宮殿)を警衛している現状が、陰陽の道を補佐することになっていないのではないかと恐れる。よって甘泉、建章の宮衛を廃止し、農に就くように命じる。百官はそれぞれ費用を省け。(省略する費用について)憚ることなく條奏(一つ一つ上奏すること)せよ。有司(官員)は勉めよ。四時(四季)の禁を犯してはならない(恐らく農時に影響を与えてはならないという意味です)。丞相・御史は天下から陰陽災異に明るい者をそれぞれ三人推挙せよ。」
この後、朝廷に意見を述べる者が増え、ある者は皇帝に招かれて謁見の機会を得ました。人々は自分の意見が皇帝の意思に叶っていると思いました。
この年、元帝が再び周堪を抜擢して光禄勳に任命しました。
周堪の弟子・張猛も光禄大夫・給事中となり、大いに信任されました。
『資治通鑑』胡三省注によると、張猛は張騫の孫です。
石顕等と対立して罷免された劉更生はまだ官職を失ったままです。
丙子 前45年
汾陰の囚徒を釈放しました。
民に爵一級を、女子百戸ごとに牛酒を、鰥寡(配偶者を失った男女)・高年(老齢者)に帛を下賜しました。
行幸で通った場所は租賦を免除しました。
次回に続きます。