西漢時代224 元帝(七) 郅支単于 前44年

今回は西漢元帝初元五年です。
 
西漢元帝初元五年
丁丑 前44
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、周子南君を周承休侯にしました。諸侯王に次ぐ地位とされます(位次諸侯王)
 
漢書元帝紀』の注によると、周承休侯は姫延年といいます。
武帝元鼎四年(前113年)、姫嘉が周王室の子孫として周子南君に封じられました。姫延年は姫嘉の孫に当たります(成帝綏和元年・前8年に再述します)
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
三月、元帝が雍を行幸し、五畤で祭祀を行いました。
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月、孛星(異星。彗星の一種)が参(参宿。西方白虎七宿の一つ)に現れました。
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
元帝が諸儒貢禹等の言を採用して詔を発しました「朕が及ばないため(朕之不逮)、序位(群臣の序列)が不明で、衆僚(百官)が久しく懬(空。空虚)になっており、まだ人を得ていない(相応しい人材が官職に就いていない)。元元(民衆)が失望し、上は皇天に感応させ、陰陽が変じて咎が万民に流れた。朕は甚だこれを懼れている。最近、関東が連続して災害に遭い、(民は)飢寒疾疫のため早死して命(寿命)を終わらせることができない(夭不終命)。『詩(邶風谷風)』にこうあるではないか『民に喪があったら、尽力してこれを援ける(凡民有喪,匍匐救之)。』よって令を下す。太官は日殺(毎日家畜を殺すこと)してはならず、具とするところ(食具。ここでは恐らく料理で使う肉を指します)を全て半分に減らすこと(所具各減半)。乗輿(皇帝の車)秣馬(馬の飼育)は正事(祭祀や武事)に不足しないだけの数にすること。角抵(格闘技。遊戯の一種)や、上林宮館でほとんど御幸しない者(宮女)、斉の三服官(皇室の衣服を作る官署)、北假(地名)の田官(農務の官。恐らく屯田の指揮官)、塩鉄官(武帝時代に置きました)、常平倉(宣帝時代に設けました)を廃止すること(経済政策を廃止したのは官が民と利を争わないためです。官が財利を重視したら貨幣経済を重んじる風潮が生まれ、商工業が貴ばれて農業が廃れることになると考えられました)。博士弟子には定員を設けず、広く学者を求めること(『資治通鑑』胡三省注によると、武帝が博士官のために弟子五十人を置きました。昭帝は弟子を百人に増やし、宣帝末年にはその倍になりました。今回、員数を制限しなくなりましたが、数年後に費用が足りなくなり、改めて定員を千人に定めました)
宗室の子で属籍がある者(皇族に籍を置く者)には馬一匹()から二駟(八頭)を下賜し、三老、孝者には一人当たり五匹の帛を、弟(悌)の者と力田には三匹を、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)には二匹を、吏民には五十戸ごとに牛酒を与える。」
 
また、元帝は民で一経に通じている者がいたら全て賦税徭役を免除しました(皆復)
刑罰を軽くするために七十余項を省きました。
光禄大夫以下、郎中に至る官員に対しては、家族の一人が罪を犯したら父母兄弟も連座する法令保父母同産之令)を排除しました。顔師古注によると、特に郎中以上としたのは優遇を表します。
 
皇帝の従官で宮殿の司馬門内に給事する者(働く者)に命じ、大父母(祖父母)父母兄弟に通籍(門籍に登録すること)させました(原文「得為大父母父母兄弟通籍」。従官の祖父母、父母、兄弟に関しても詳しく記録させたという意味で、祖父母、父母、兄弟が自由に入宮できるようになったのではないと思います)
顔師古注によると、従官は天子に常に従う者を指します。司馬門は宮殿の外門です。
籍は二尺の竹牒で、年齢、姓名、容貌を書いて宮門に掛けられており、入宮の際に確認されました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
御史大夫陳万年が死にました。
六月辛酉(二十日)、長信少府貢禹が御史大夫になりました。
 
貢禹は前後して数十回の上書を行い、政治の得失について述べました。
元帝は貢禹の質直(純朴実直)を嘉して多くの意見を採用しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴郅支単于は漢から遠く離れており、しかも漢が呼韓邪単于を擁護していることを怨んでいたため、漢の使者江乃始等を困辱(困窮させて辱めること)しました。同時に漢に使者を送って貢物を献上し、侍子(入侍している息子)を還すように要求します(郅支単于は子の右大将駒于利受を漢に送りました。宣帝甘露元年53年参照)
 
漢の朝廷は議論の結果、衛司馬谷吉(谷が姓氏)単于の子を送らせることにしました。
御史大夫貢禹と博士で東海の人匡衡が言いました「郅支単于の郷化(向化。帰順)はまだ純粋ではなく(郷化未醇)、しかも絶遠の地にあるので、使者が単于の子を送って塞に至ったら還らせるべきです。」
谷吉が上書して言いました「中国と夷狄には長い間、懐柔して絶つことがない関係(羈縻不絶之義)があります。今すでにその子を十年も養全(扶養保護)し、徳沢が極めて厚いのに、空しく関係を絶って送らず(空絶而不送)、近くの塞から還ったら、匈奴との関係を)放棄して養う意思がないことを示し(示棄捐不畜)、彼等の郷従(向従。服従の心を失わせてしまいます。前恩を棄てて後怨を立てるのは便ではありません。議者(議論した者)は江乃始が敵に応じる数(計策)を持たなかったため、智勇ともに窮し、恥辱を招くことになった前例を見て、事を起こす前に臣のために憂いています。臣は幸いにも強漢の節(符節)を建て、明聖の詔を受けて厚恩を宣諭することができるので、(郅支単于は威を恐れて)敢えて桀(凶暴。無礼)を行わないはずです。もし禽獣の心を抱いて臣に無道を加えるようなら、単于は長く大罪を帯びることになるので、必ず遠くに遁逃(遁走)して留まり、辺境に近付こうとはしなくなります。一使を失って百姓を安んじるのは国の計であり、臣の願いでもあります。単于の子を)単于庭)まで送ることを願います。」
元帝は谷吉の意見に同意しました。
しかし谷吉一行が単于庭まで行くと、郅支単于は怒って谷吉等を殺してしまいました。
 
漢書傅常鄭甘陳段伝(巻七十)』では前年の初元四年(前45年)に郅支単于が侍子を返すように求め、御史大夫貢禹と博士匡衡が谷吉を単于庭に送ることに反対しています。
しかし『漢書元帝紀』は五年(本年)に「衛司馬谷吉が匈奴に使いして還らなかった」と書いています。貢禹が御史大夫になったのは本年六月なので、谷吉が郅支単于を訪ねたのは本年のはずです。あるいは、郅支単于が侍子を求めたのは昨年で、谷吉が匈奴に行ったのは本年かもしれません(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
郅支単于は自分が漢を裏切った事を自覚しており、また、呼韓邪単于が日に日に強盛になっていると聞いたため、襲撃を恐れて遠くに逃げようとしました。
 
この頃、康居王がしばしば烏孫の攻撃を受けていたため、諸翕侯と計ってこう考えました「匈奴は大国で烏孫は以前から服属していた。今、郅支単于は外で困阨(困窮)しているから、迎え入れて東辺に置くべきだ。兵を合わせて烏孫を取り、そこに立てよう(郅支単于烏孫王に立てよう)。こうすれば長く匈奴の憂を除くことができる。」
康居王は使者を堅昆(郅支単于の都)に送り、郅支単于に伝えました。
郅支単于(漢と呼韓邪単于の襲撃を)恐れており、烏孫にも怨みがあったため、康居の計を聞いて大喜びし、共に結んで兵を西に向けました。
しかし郅支単于に従う多くの者が道中で寒さのために死に、残った者は三千人しかいませんでした。
 
郅支単于が康居に到着すると、康居王は娘を郅支単于に嫁がせました。
郅支単于も娘を康居王に嫁がせます。
康居は郅支単于をとても尊重し、匈奴の威を借りて諸国を脅かそうとしました。
郅支単于はしばしば兵を借りて烏孫を撃ちました。赤谷城烏孫の都)にまで深入りし、民人を殺略して畜産を奪います。
郅支単于が引き上げても烏孫には追撃する力がなく、西辺が空虚になって五千里に人が住まなくなりました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。胡三省注は「赤谷城から西に向かって康居の領地に至るまでの距離が五千里なので、もし五千里が空虚になったとしたら、赤谷から西に人が住まなくなったことになる」と指摘しており、『漢書傅常鄭甘陳段伝(巻七十)』に書かれている「西辺が空虚になり、人が住まない地が約千里に及んだ(不居者且千里)」という記述が正しいとしています。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十二月丁未(初九日)御史大夫貢禹が死にました。
丁巳(十九日)、長信少府薛広徳を御史大夫にしました。
 
 
 
次回に続きます。

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