西漢時代225 元帝(八) 薛広徳 前43年(1)

今回は西漢元帝永光元年です。三回に分けます。
 
西漢元帝永光元年
戊寅 前43
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、元帝が甘泉を行幸して泰畤で郊祭を行いました。
 
雲陽の囚徒を赦しました。
民に爵一級を、女子百戸ごとに牛酒を、高年(老齢者)に帛を下賜し、行幸した場所は租賦を免除しました。
 
祭礼が終わってから、元帝がそのまま留まって射猟をしようとしました。しかし薛広徳が上書して言いました「(臣が)窺い見るに(竊見)関東では困苦が極まり、人民が流離しているのに、陛下は日々、亡秦の鍾を打ち、鄭衛の楽(音楽)を聞いているので、臣は誠に哀悼しています。今は士卒を暴露させて、従官も労倦疲労しています。陛下が速く宮に帰ることを願います。(陛下が)百姓と憂楽を共にすることを思えば、天下の幸甚となります。」
元帝は即日帰還しました。
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
二月、元帝が詔を発しました「丞相、御史は質樸(質朴)、敦厚、遜讓、有行(徳行があること)の者を推挙せよ。光禄は毎年、この内容に則って郎、従官を科第(考課)せよ。」
この後、質樸、敦厚、遜讓、有行の四科(四項)が人材を考察する基準になりました。
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
三月、元帝が詔を発しました「五帝三王は賢才に任せて能力を発揮させ(任賢使能)、そのおかげで至平に登った。今、不治なのは(政治が安定しないのは)、その民が異なるからであろうか。咎は朕の不明にあり、賢才を知ることができないからである。そのため壬人(佞人)が位におり、吉士(善士)が雍蔽(隠して排斥すること)されている。周秦以来の弊害が重大なため、民は徐々に薄俗(軽薄な風俗)に染まり、礼義を棄てて刑法に触れている。哀しいことではないか。このように観ると、元元(庶民)に何の辜(罪)があるのだ。よって天下を赦し、厲精(発奮)自新してそれぞれ農畝(農耕)に務めさせる。田がない者には全て貸し出し、種穀物の種と食糧)も貧民と同じように貸与する(田地や種・食を貸し出した対象は赦免されて農業に従事することになった者です)。秩六百石以上の吏には五大夫の爵を下賜し、吏で勤事(勤勉)な者には爵二級を、父の後を継ぐ立場にいる民には一級を、女子には百戸ごとに牛酒を、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りのない老人)高年(高齢者)には帛を与える(原文「賜吏六百石以上爵五大夫,勤事吏二級,為父後者民一級,女子百戸牛酒,鰥寡孤独高年帛。」)。」
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
この月、雪や霜が降ったため、桑が枯れて麦稼(農作物)が被害を受けました。
 
漢書元帝紀』はこの後、「秋罷」の二字を書いています。
顔師古は「罷」について「秋に至っても収穫がなかった」と解説しています。
しかし如淳(『漢書』の注者)は、通常は「罷某官(誰かを罷免した)」「罷某事(何かを廃止した)」と書くべきなので、「秋罷」の後の文が失われたはずだと解釈しています。元は「于定国、史高、薛広徳を罷免した(下述)」と書かれていたのかもしれません。
 
[] 『資治通鑑』からです。
秋、元帝が宗廟で酎祭(酎は祭祀で使う酒です。「祭酎」は祭祀を指します)を行うために便門を出ました。
資治通鑑』胡三省注によると、便門は長安城南面の西側第一門です(宗廟は長安城南の郊外にあったようです)
 
元帝が楼船に乗ろうとしました(何の川を渡ろうとしたのかはわかりません)。しかし薛広徳が乗輿車(皇帝の車)を遮り、冠を脱いで頓首しながら言いました「橋から行くべきです。」
元帝が詔を発して「大夫は冠せよ」と命じました。
薛広徳が言いました「陛下が臣の意見を聴かないようなら、臣は自刎して血で車輪を汚します。陛下が廟に入ることはできません!」
元帝は不快になりました。
先敺(先駆。先導)の光禄大夫張猛が元帝に言いました「主が聖なら臣が直になると聞いています。船に乗るのは危険で、橋を渡るのは安全なことです。聖主は危に乗じないものです。御史大夫の言を聴くべきです。」
元帝は「人を諭す時はこのようであるべきではないか(曉人不当如是邪)」と言って橋を渡りました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
九月、また霜が降って農作物を枯れさせました。
 
天下が大飢饉に陥りました。
当時は政治の乱れが天変地異の原因になると考えられていたため、丞相于定国、大司馬車騎将軍史高、御史大夫薛広徳が災異の責任を取って引退を請いました(乞骸骨)
元帝は安車(座って乗る小車)、駟馬(馬四頭)、黄金六十斤を下賜して三人を罷免しました。
 
太子太傅韋玄成が御史大夫になりました。
漢書百官公卿表下』では、「七月癸未」に大司馬史高を罷免し、「七月辛亥」に韋玄成が御史大夫になり、「十一月戊寅」に丞相于定国を罷免しています(薛広徳は病のため官を辞しています。月日は書かれていません)
荀悦の『前漢孝元皇帝紀(巻第二十二)』では「七月己未」に史高を罷免し、「十二月(日は書かれていません)」に于定国を罷免しています(韋玄成が御史大夫になるのは『百官公卿表』と同じで「七月辛亥」です。薛広徳は病のため、七月に辞職しています)
漢書雋疏于薛平彭伝(巻七十一)』では、酎祭の一月余後(後月余)に、薛広徳が丞相于定国、大司馬車騎将軍史高と共に引退しており、薛広徳が御史大夫を勤めた期間を約十カ月としています(薛広徳は昨年十二月丁巳(十九日)御史大夫になりました)
それぞれの記述において月日が異なるため、『資治通鑑』は月日を明記していません(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
薛広徳は帰ってから(『漢書雋疏于薛平彭伝』によると沛郡相県の人です)下賜された安車を懸けて(高くに吊るして)子孫に栄誉を示し伝えました。
これを「致仕懸車」といいます。「致仕」は官を辞すことです。「懸車」は車を高い場所に懸けるという意味で、こうすることで家に帰ってから外出しないことを示し、また、栄誉を子孫に伝えました。
「致仕懸車」は「官を辞して隠居生活を送ること」を表す言葉になりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
元帝が太子だった頃、太中大夫孔霸から『尚書』を学びました。
元帝は即位後、孔霸に関内侯の爵位を下賜し、褒成君と号して給事中にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、「褒成」というのは帝の師として教令を成就させたことを意味します。
 
元帝は孔霸を丞相の位に登らせたいと思いました。しかし孔霸は謙退の人で、権勢を好まなかったため、常に「爵位が髙くなり過ぎたら、何の徳があって堪えられるでしょう(私の徳では責任を負えません。原文「何徳以堪之」)」と言って辞退しました。
御史大夫がしばしば欠員になったため、元帝はまた孔霸を用いようとしました。しかし孔霸はやはり辞退し、再三にわたって心情を語ります。
元帝は孔覇の至誠を深く知り、任命をあきらめましたが、これが原因でますます尊敬して厚い賞賜を与えました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
戊子(二十四日)、侍中衛尉王接を大司馬車騎将軍にしました。
王接は平昌侯王無故(宣帝の母の兄弟。宣帝地節四年66年参照)の子です。
 
 
 
次回に続きます。