西漢時代227 元帝(十) 諸葛豊 前43年(3)

今回で西漢元帝永光元年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
琅邪の人諸葛豊が司隸校尉を勤めていました。
資治通鑑』胡三省注によると、葛氏は元々琅邪諸県の人でしたが、陽都県に遷りました。移住した人々は以前住んでいた諸県を葛の前につけて諸葛氏を名乗りました。または、陳渉の将葛嬰が功を立てたのに誅されたため、西漢文帝が子孫を探して諸県侯に封じました。その後、諸葛が氏になりました。
諸葛豊は三国時代諸葛亮の先祖といわれています。
 
諸葛豊は剛直で徒党を組まず独立していたため、朝廷で名が知られていました。しばしば貴戚(貴人や皇族)も犯したため(高貴な者も畏れず検挙・告発したため)、官位にいる者の多くが諸葛豊の欠点を挙げました。
後に春夏に人を逮捕して裁いた罪(春夏繫治人)に坐し、城門校尉に遷されました。
春と夏は万物が成長する時なので、当時は監獄の囚人を減らして裁判を止めることで天時に順じていました。諸葛豊はこれに背いたことになります。
資治通鑑』胡三省注によると、城門校尉は京師十二城門の屯兵を指揮します。
 
城門校尉に左遷された諸葛豊は上書して周堪と張猛の罪を告発しました。
元帝は諸葛豊が実直ではないと判断し、御史に詔を発しました「城門校尉豊は、かつて光禄勳堪、光禄大夫猛と共に朝廷にいた時、しばしば堪、猛の美を称賛していた。豊は以前、司隸校尉になったが、四時(四季)に順じず、法度(法令)を修めず、専ら苛暴を為して虚威(虚偽の威信)を得た。しかし朕は(諸葛豊を)吏に下すのが忍びなかったので、城門校尉にした。ところが(諸葛豊は)自分を内省(反省)せず、逆に堪、猛を怨んで報挙(報復。ここでは怨みを晴らすこと)を求め、無証の辞(証拠のない供述)を告按(告発・調査)し、難験の罪(証明が困難な罪)を暴揚(暴露宣揚)し、恣意に毀誉(誹謗と称賛)して前言を顧みなかった。これは不信の大きなものである。朕は豊の耆老(老齢)を憐れみ、刑を加えるのが忍びないので、罷免して庶人にする。」
 
元帝は諸葛豊を罰しましたが、楊興や諸葛豊の告発は元帝の周堪等に対する信用にも影響を及ぼしました。
元帝が言いました「諸葛豊は周堪、張猛が貞信が立たない(誠実ではない)と言った。朕は二人を憐れみ、追及するつもりはない。またその材能(才能)を発揮できないことを惜しむので、(二人を罷免せず)左遷して周堪を河東太守とし、張猛を槐里令にする。」
資治通鑑』胡三省注によると、槐里は周代の犬丘で、秦代は廃丘といいました。西漢高帝時代に槐里に改められました。右扶風に属します。
 
資治通鑑』の編者司馬光はこう言っています。
「諸葛豊は周堪と張猛に対して、始めは称賛していたのに後には誹謗した。その志は朝廷のために善を進めて姦を去らせようとしたのではなく、徒党を組んで昇進を求めただけである。彼もまた鄭朋、楊興の流(同類)である。どこが剛直だというのだ。
人君とは、美悪を察し、是非を明らかにし、賞によって善を奨励し、罰によって姦を懲らしめ、こうすることで政治を為すものである。諸葛豊の言が事実だったとしたら、諸葛豊は罷免されるべきではなかった。誣罔(欺瞞)だったとしたら、周堪と張猛に何の罪があったのだ。今回、双方が譴責されて棄てられたが、美悪と是非は果たしてどこに差があるのだ。」
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
賈捐之はしばしば石顕の短所を指摘していたため、官職を得られず、元帝に意見を述べる機会もほとんどありませんでした。
楊興は最近、その才能によって元帝の信任を得ています。
賈捐之は楊興と仲が良かったため、こう言いました「京兆尹は欠員になっている(『漢書百官公卿表下』によると、元帝初元四年(前45年)に「京兆尹成」とあり、永光四年(前40年)に光禄大夫で琅邪の張譚が京兆尹になっています。『資治通鑑』胡三省注は、「当時は京兆尹成が既に去って張譚がまだ着任していなかったため、欠官になっていたようだ」と解説しています)。私に謁見の機会を与えてくれれば、君蘭(または「君簡」。楊興の字)の事を話すので、京兆尹に立てるだろう。」
楊興が言いました「君房(賈捐之の字)が下筆したら(筆をとったら)、言語が天下の妙(精妙)なので、君房を尚書令にするだろう。五鹿充宗より遠く勝っている。」
資治通鑑』胡三省注によると、尚書令は秦代に設けられた官で、武帝が宦者を用いて中書謁者令に改めました。当時は石顕が中書令、五鹿充宗が尚書令なので、両官が併設されていたようです。
五鹿充宗は五鹿が氏です。趙の大夫が五鹿を食邑にしたため、邑名が氏になりました。
漢書佞幸伝(巻九十三)』によると、五鹿充宗は石顕の党友です。
 
賈捐之が言いました「私を充宗に代わらせて、君蘭が京兆になれば、京兆は郡国の首であり、尚書は百官の本なので、天下が真に大治し、士が隔てられることもなくなる(優秀な士に官途が開かれる)。」
 
後に賈捐之がまた石顕の短所を責めたため、楊興が言いました「石顕は権貴な地位におり、上(陛下)も信用している。これから進みたいのなら(朝廷で用いられたいのなら)、ただ私の計に従っていればいい。とりあえず(石顕の)意に合わせれば、すぐに(朝廷に)入れるだろう。」
 
賈捐之は楊興と共に石顕の美を称賛するようになりました。石顕に関内侯の爵位を与え、石顕の兄弟を登用して諸曹にするべきだと上奏します。
また、二人は楊興を推薦する上奏文を準備し、賈捐之がそれを提出しました。楊興を試しに守京兆尹(「守」は代理、試用の意味です)に任命するように進言します。
これを聞いた石顕は二人の企みを知り、元帝に報告しました。
元帝は楊興と賈捐之を獄に下して石顕に審問させます。
石顕が上奏しました「楊興と賈捐之は詐偽を抱き、互いに薦誉して大位を欲しています。上(陛下)を欺く不道なことです(罔上不道)。」
賈捐之は棄市に処され、楊興は髠鉗(髪や髭を剃って刑具をつけること)して城旦(城壁の修築や警護。苦役)する刑に処されました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
清河王劉竟(宣帝の子。元帝の弟)を中山王に遷しました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
匈奴呼韓邪単于の民衆が日に日に増加し、塞下の禽獣を獲り尽くしました。
また、単于は既に自衛できる力をもっており、郅支単于を畏れる必要もありません。
そこで多くの大臣が単于に北に帰るように勧めました。
久しくして、呼韓邪単于が北上して単于庭に帰りました。
民衆が徐々に戻って帰順し、匈奴の国が安定します。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代228 元帝(十一) 匡衡 前42年(1)