西漢時代228 元帝(十一) 匡衡 前42年(1)

今回は西漢元帝永光二年です。二回に分けます。
 
西漢元帝永光二年
己卯 前42
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
春二月、元帝が詔を発しました「唐(堯舜)象刑(衣服等で罪人かどうかわかるようにして辱めること)を用いて(死刑や肉刑がなかったのに)その民が(法を)犯さず、殷(商)周は法を行って姦軌(罪人)が服したと聞いている。今、朕は高祖の洪業(大業)を継承することができ、位を公侯の上に託されているので、夙夜(朝夜)戦栗(戦慄)し、永く百姓の急を考慮して未だ忘れたことがない。ところが陰陽は調和せず、三光(日星)晻昧(暗黒)になった。元元(民衆)が大困して道路に流散し、盗賊が並び興きている。有司(官員)もまた残賊(残忍暴虐)を助長し、牧民(民を養うこと)の術を失っている。これは皆、朕の不明が原因で政事に虧(欠陥)が生まれたのである。咎がここに至り、朕は自らを深く恥じている。民の父母となりながら、このように(徳が)薄くて、百姓に対してどうすればいいのだ。よって天下に大赦し、民に爵一級を、女子には百戸ごとに牛酒を、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)高年(高齢者)、三老、孝弟(悌)力田には帛を下賜する。」
 
また、諸侯王、公主、列侯に黄金を下賜し、中二千石以下から中都官(京師の官員)、長吏にはそれぞれ差をつけた賞賜を与え、六百石以上の吏は爵を五大夫とし、勤事(勤勉)の吏にはそれぞれ爵二級を与えました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
丁酉(初五日)御史大夫韋玄成を丞相に、右扶風鄭弘を御史大夫に任命しました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月壬戌朔、日食がありました。
 
元帝が詔を発しました「朕は戦戦栗栗(戦戦兢兢)とし、夙夜(朝夜)過失を考えて荒寧(怠惰荒廃して安逸になること)しないようにしているが、陰陽が調和せず、その咎を照らすことができない(過失を明らかにすることができない。天変の原因を明らかにできない)。しばしば公卿に戒告して、日々効(成果)があることを望んでいるが、今に至っても、有司(官員)が執政して中(適切な方法)を得ておらず、施与(施し)と禁切(禁令。制限)が民心に合っていない(恩恵が少なく禁令が苛酷である)。暴猛の俗が久しく成長し、和睦の道が日々衰え、百姓は愁苦して躬(身)を置く所もない。その結果、氛邪(悪気)が年々増加して太陽を侵犯し、正気が湛掩(沈掩。沈んで姿を隠すこと)して日が久しく光を奪われ、壬戌に日蝕が起きた。天が大異を示して朕の躬(身)を戒めたので、朕は甚だ悼んでいる。よって内郡国に茂材異等賢良直言の士を各一人挙げさせる。」
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月、元帝が詔を発しました「最近、連年不收(不作)のため四方が全て困窮している。元元の民(庶民)は耕耘(農業)に労しているのに成功(成果)がなく、饑饉に苦しんでいるのに救済することもできない。朕は民の父母となりながら、徳で覆うことができないのに刑罰を用いているので、内心で甚だ悲傷している(甚自傷焉)。よって天下を赦すことにする。」
こうして大赦が行われました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
元帝が給事中匡衡に地震日食の変異について問いました。
資治通鑑』胡三省注によると、匡衡は博士給事中です。匡は魯の邑で、句須が邑宰になり、その子孫が邑名を氏にしました。
 
匡衡が上書しました「陛下は自ら聖徳によって太平の路を開いており、愚かな吏民が法に触れて禁制を犯していること(觸法抵禁)を憐れんで、連年大赦して(比年大赦百姓に改行自新(反省して行いを改めること)の機会を得させています。これは天下の幸甚というものです。しかし臣が窺い見るに、赦大赦の後にも姦邪が衰え止むことはなく、今日大赦しても明日には法を犯し、相次いで入獄しています。これは民を導いてもまだ務(要点)を得ていないからです。今、天下の俗は財を貪って義を軽んじ(貪財賎義)、声色(音楽と女色)を好み、侈靡(奢侈浪費)を尊崇し、親戚の恩を薄くして婚姻の党を隆くし(親族の関係を薄くして婚姻関係を重視し)、互いに附和して偶然の幸運を求め(苟合徼幸)、その身をもって利を貪っています。その原(根本)を改めなければ、たとえ毎年これを赦しても大赦しても)、やはり刑を置いて用いなくするのは困難です。臣の愚見によるなら、一度その俗を曠然大変するべきです(風俗を徹底的に変えるべきです)
朝廷とは天下の楨幹(支柱)です。朝廷に変色の言(「変色」は顔色を変えることです。憤怒を意味します)があったら、下には争闘の患(憂い)があります。上に自専の士(専横の士)がいたら、下には不讓の人(謙譲しない人)がいます。上に克勝の佐(好戦的な大臣)がいたら、下には傷害の心(他者を傷つけようとする心)ができます。上に好利の臣(利を好む臣)がいたら、下には盗竊(窃盗)の民がいます。これがその本です(これが今の風俗が廃れている原因です。上の行いに問題があるので、下もそれに倣っています)。天下を治める者は何を大切にするかを慎重にするだけです(天下を治める者は、尊崇するべきことを慎重に選ぶだけです。正しいことを選んで尊べば天下は正しく治まります。原文「治天下者審所上而已」)。教化の流(類)は各家に至って全ての人に説くようなものではありません。賢者が位におり、能者(能力がある者)が職に就き、朝廷が礼を尊崇し、百僚が敬讓(尊敬・謙譲すれば、道徳の行(推進。教化)は内から外に及び、近い者から始まって、後には民が法(準則)とするところを知り、日に日に善に向かってしかも自分ではそれに気がつきません(遷善日進而不自知也)。『詩(商頌殷武)』にはこうあります『商邑商王朝の都)は翼翼(秩序正しい様子)としており、四方の極(中心。基準)である(商邑翼翼,四方之極)。』今、長安は天子の都であり、直接聖化(皇帝の教化)を受けています。しかしその習俗は遠方と違いがありません。郡国から来た者は法則(基準。見本)とすることがなく、ある者は侈靡(奢侈浪費)を見てそれを真似ています。ここは教化の原本、風俗の枢機なので、まず先に正すべきです。
臣が聞くには、天人の際(間)では精祲(精気。「祲」は不祥の気です)が互いに動かし合い、善悪が互いに推し合っています。下で事が起きたら、上で象が動きます(下に動きがあったら上に兆が現れます。原文「事作乎下者象動乎上」)。陰が変わったら静のものが動き(陰の気が変化したら地震が起き)、陽が覆われたら明のものが晻(暗いこと)になります(陽の気が覆われたら日食が起きます)。そして水旱の災が類に従って訪れます。
陛下は天戒を祗畏(敬畏)し、元元(民衆)を哀閔(哀憫)しているので、靡麗(奢侈華美)を省き、制度を考察し、忠正を近づけ、巧佞を遠ざけ、至仁を尊崇することで失俗(廃れた風俗)を匡す(正す)べきです。道徳を京師で拡げて淑問(美名)を疆外(国外)に宣揚させれば、その後、大化(広大な教化)を完成させて礼讓(礼義謙譲の美徳)を興すことができます。」
元帝はこの進言に喜んで匡衡を光禄大夫に任命しました。
 
 
 
次回に続きます。