西漢時代230 元帝(十三) 宗廟の議 前41~40年

今回は西漢元帝永光三年と四年です。
 
西漢元帝永光三年
庚辰 前41
 
[] 『資治通鑑』からです。
春二月、右将軍馮奉世が西羌討伐から帰還しました。
元帝は馮奉世を左将軍に改め、関内侯の爵位を下賜しました。
 
漢書元帝紀』は「(本年)春、西羌を平定し、軍を解散した」と書いています。
資治通鑑』は『漢書馮奉世伝(巻七十九)』を元にしており、西羌討伐を昨年にまとめて書いていますが、実際に西羌を平定したのは昨年末から本年春にかけての事かもしれません。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、元帝が皇子劉康を済陽王に立てました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月癸未、大司馬車騎将軍平昌侯王接(考侯)が死にました。
王接は平昌侯王無故(節侯。宣帝の母の兄弟。宣帝地節四年66年参照)の子です。
 
秋七月壬戌(中華書局『白話資治通鑑』は「壬戌」を恐らく誤りとしています)、平恩侯許嘉を大司馬車騎将軍にしました。
許嘉は許延寿の子で、許延寿は許広漢(許皇后の父)の弟です。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十一月己丑(初八日)地震があり、雨が降りました地震雨水)
 
元帝が詔を発しました「最近、己丑に地が動き、中冬(仲冬。十一月)に雨が降って大霧が起き、盗賊が並起した。吏はなぜ適時に禁じないのだ。それぞれ意を尽くして答えよ。」
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
塩鉄官(塩と鉄の専売を管理する官)を再び設け、博士弟子の定員を千人に定めました。
 
元帝初元五年(前44年)に塩鉄官を廃止して、博士弟子の人数も上限をなくしましたが、朝廷の用度(経費)が不足しており、多くの民に対しても賦税を免除したため(民多復除)、中外(内外)の徭役にまわす費用が足りなくなりました。そのため、塩鉄官が再設され、博士弟子の定員が設けられました。
 
 
 
西漢元帝永光四年
辛巳 前40
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
春二月、元帝が詔を発しました「朕は至尊の重(重任)を継承したが、百姓を燭理(正しく治めること)することができず、しばしば凶咎に遭っている。その上、辺竟(辺境)が不安なため、師旅(軍隊)が外におり、賦斂(税収)を転輸しなければならず、元元(民衆)が騒動し、困窮して生きる術を失い(窮困亡聊)、法を犯して罪()に触れている。上がその道を失っているのに、下を深刑(厳しい刑)によって縛っていることに朕は甚だ心痛する。よって天下を赦し、貧民に貸し出した物は收責(取り立て)しないことにする。」
こうして天下に大赦しました。
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
三月、元帝が雍に行幸し、五畤を祀りました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月甲戌(二十六日)、孝宣園の東闕で火災がありました。
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
戊寅晦、日食がありました。
 
元帝が詔を発しました「明王が上におり、忠賢が職を行ったら(布職)、群生(全ての生き物)が和楽して方外が恩沢を蒙ると聞いている。今、朕は王道に暗いので、夙夜(朝から夜まで)憂労しているが、まだその理に通じることができず、前を見れば視界が乱れないことなく、ものを聴けば耳が惑わされないことなく(靡瞻不眩,靡聴不惑、そのため政令の多くが元に戻され政令が徹底できず)、民心もまだ得られず、邪説がいたずらに進められ(邪説空進)、事が功を成していない。これは天下が著聞(よく聞き知っていること)していることである。公卿大夫の好悪(善悪の基準、行為)が異なり、ある者は姦を利用して邪を行い(縁姦作邪)、細民(庶民)を侵削(侵害剥奪)している。元元(庶民)はどこに帰命すればいいのだ(誰を頼ればいいのだ)。最近六月晦に日蝕があった。『詩(小雅十月之交)』にこうあるではないか『今この下民(庶民)は、(災害が多くて)とても不憫だ(今此下民,亦孔之哀)。』今から公卿大夫は勉めて天戒を思い、慎身修永(長久の平安のために慎んで身を修めること)して朕の不逮(不足。及ばないこと)を補佐せよ。直言して意を尽くし、隠してはならない(無有所諱)。」
 
永光元年(前43年)に天変があった時、石顕や許氏、史氏に与する群臣が天変の原因は周堪と張猛にあると訴えました。今回、また日食があったため、元帝は周堪と張猛に罪を着せた者を譴責しました。皆、稽首して謝ります。
元帝は詔を下して周堪と張猛の美を称賛し、行在所(皇帝がいる場所)に招きました。周堪を光禄大夫に任命して秩中二千石とし、尚書の政務を兼任させます(領尚書事)。張猛は太中大夫給事中になりました。
 
当時は中書令石顕が尚書を管理しており、尚書の五人も全て石顕の党人でした。
資治通鑑』胡三省によると、西漢成帝時代に尚書の定員が五人に定められます。ここで五人と言っているのは、石顕、牢梁、五鹿充宗、伊嘉、陳順が「領尚書事」を担当していることを指します。定員が決められる前ですが、五人が尚書を勤めていました。
 
石顕の一党が実権を握っていたため、新たに領尚書事を命じられた周堪が元帝に会う機会はほとんどなく、上奏する際も常に石顕を通す必要があり、政事は石顕によって決定されました。
やがて周堪は疾瘖(声が出ない病)を患い、何も言えずに世を去りました。
張猛も石顕の誣告に遭い、公車(官署)で自殺しました(周堪と張猛の没年ははっきりしません)
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
以前、貢禹がこう上奏しました(貢禹は元帝初元五年44年に死にました。生前の出来事です)「孝恵、孝景廟は全て親(親情)が尽きているので壊すべきです。また、郡国の廟に及んでは古礼に応じていないので、正しく定めるべきです。」
元帝はこの意見に納得しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、貢禹は中央や郡国の廟を削るように上奏しましたが、施行する前に死にました。しかし貢禹の死後も韋玄成等が毀廟の議(廟を毀壊する意見)を上奏しました。
中央の廟を削る制度を「宗廟迭毀の礼」といいます。「迭毀」は「順に破毀する」という意味です。貢禹等は、当世の皇帝から関係が遠い廟は壊して祭祀を中止するべきだと考えました。
郡国においては、以前、恵帝が高帝廟を尊んで太祖廟とし、景帝が文帝廟を尊んで太宗廟とし、行幸した郡国に太祖太宗廟を建ました。宣帝も武帝を尊んで世宗廟とし、巡狩した場所に世宗廟を建てました。全国で六十八の郡国に祖宗廟が建てられ、廟の数は合計百六十七カ所に上ります。しかし『春秋』の義によると「王(帝王。天子)は臣下の土地である諸侯の領では祭らない(王不祭於下土諸侯)」と考えられていたため、郡国が天子の廟を祀るのは古礼に応じていませんでした。
 
秋七月戊子(初十日。『漢書元帝紀』は「九月戊子」としていますが、ここは『資治通鑑』に従って「七月」にしておきます)、昭霊后、武哀王、昭哀后、衛思后、戾太子、戾后の園の祭祀を廃止し、守衛の吏卒を削減しました(または「守衛の吏卒を置くだけにしました」。原文「裁置吏卒守焉」)
昭霊后は高帝の母、武哀王は高帝の兄、昭哀后は高帝の姉です。衛思后は戾太子(劉據)の母衛子夫です。戾后は戾太子の妻史良娣です。
 
冬十月乙丑(十九日)、郡国の祖宗廟を撤廃しました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
諸陵を分けて三輔に属させました。
資治通鑑』胡三省注によると、これまでは太常が諸陵を管理していましたが、今後は所在地に応じて三輔が管理することになりました。
 
元帝が渭城()寿陵亭部の原上(原野)を初陵元帝陵。まだ命名されていないため初陵といいます。「初置之陵(建設を始めたばかりの陵)」という意味です)にしました。
 
元帝が詔を発しました「自分の土地に安んじて移住を難とするのは(安土重遷)、黎民(民衆)の性である。骨肉(親戚家族)が互いに頼りあうのは(骨肉相附)、人情が願うことである。最近、有司(官員)が臣子の義を引用し、郡国の民を遷して園陵を奉じることを上奏した。これは百姓に先祖の墳墓を遠くに棄てさせ、破産失業させ(破業失産)、親戚を別離させ、人に思慕の心を抱かせ、家に不安な心(不自安之意)を持たせることである。これによって東垂(東方。関東)は虚耗の害を被り(関東は民が減って空虚になり。または、関東の民を遷すことでいたずらな浪費を招き)、関中は無聊の民(生活の術がない民)を有すことになるので、久長の策ではない。『詩(大雅民労)』にはこうあるではないか『民が労働したので、やっと小康を得た。中国に恵みがあり、四方を安定させる(民亦労止,迄可小康,恵此中国,以綏四方)。』
よって、最近建設を始めた初陵には、県邑を置いてはならない。天下全てに安土楽業させ、動揺の心を持たせてはならない。天下に布告して明らかに知らしめよ。」
こうして元帝の初陵には県邑を置かず、郡国の民も遷さないことになりました。
 
また、先后の父母の奉邑を廃しました。
漢書』に注釈があります「先后がその父母のために邑を置いて冢(墓)を守らせ、祭祀を奉じさせたが、既に久遠になり、典制にも則っていなかったので、廃止した。」
しかし「先后」が誰を指すのかはよくわかりません。宣帝の皇后で元帝を育てた邛成王皇后でしょうか。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代231 元帝(十四) 昭儀 前39年