西漢時代230 元帝(十三) 宗廟の議 前41~40年
庚辰 前41年
春二月、右将軍・馮奉世が西羌討伐から帰還しました。
夏四月癸未、大司馬・車騎将軍・平昌侯・王接(考侯)が死にました。
王接は平昌侯・王無故(節侯。宣帝の母の兄弟。宣帝地節四年・前66年参照)の子です。
許嘉は許延寿の子で、許延寿は許広漢(許皇后の父)の弟です。
塩鉄官(塩と鉄の専売を管理する官)を再び設け、博士弟子の定員を千人に定めました。
元帝初元五年(前44年)に塩鉄官を廃止して、博士弟子の人数も上限をなくしましたが、朝廷の用度(経費)が不足しており、多くの民に対しても賦税を免除したため(民多復除)、中外(内外)の徭役にまわす費用が足りなくなりました。そのため、塩鉄官が再設され、博士弟子の定員が設けられました。
辛巳 前40年
春二月、元帝が詔を発しました「朕は至尊の重(重任)を継承したが、百姓を燭理(正しく治めること)することができず、しばしば凶咎に遭っている。その上、辺竟(辺境)が不安なため、師旅(軍隊)が外におり、賦斂(税収)を転輸しなければならず、元元(民衆)が騒動し、困窮して生きる術を失い(窮困亡聊)、法を犯して罪(刑)に触れている。上がその道を失っているのに、下を深刑(厳しい刑)によって縛っていることに朕は甚だ心痛する。よって天下を赦し、貧民に貸し出した物は收責(取り立て)しないことにする。」
こうして天下に大赦しました。
夏六月甲戌(二十六日)、孝宣園の東闕で火災がありました。
戊寅晦、日食がありました。
元帝が詔を発しました「明王が上におり、忠賢が職を行ったら(布職)、群生(全ての生き物)が和楽して方外が恩沢を蒙ると聞いている。今、朕は王道に暗いので、夙夜(朝から夜まで)憂労しているが、まだその理に通じることができず、前を見れば視界が乱れないことなく、ものを聴けば耳が惑わされないことなく(靡瞻不眩,靡聴不惑)、そのため政令の多くが元に戻され(政令が徹底できず)、民心もまだ得られず、邪説がいたずらに進められ(邪説空進)、事が功を成していない。これは天下が著聞(よく聞き知っていること)していることである。公卿大夫の好悪(善悪の基準、行為)が異なり、ある者は姦を利用して邪を行い(縁姦作邪)、細民(庶民)を侵削(侵害剥奪)している。元元(庶民)はどこに帰命すればいいのだ(誰を頼ればいいのだ)。最近六月晦に日蝕があった。『詩(小雅・十月之交)』にこうあるではないか『今この下民(庶民)は、(災害が多くて)とても不憫だ(今此下民,亦孔之哀)。』今から公卿大夫は勉めて天戒を思い、慎身修永(長久の平安のために慎んで身を修めること)して朕の不逮(不足。及ばないこと)を補佐せよ。直言して意を尽くし、隠してはならない(無有所諱)。」
永光元年(前43年)に天変があった時、石顕や許氏、史氏に与する群臣が天変の原因は周堪と張猛にあると訴えました。今回、また日食があったため、元帝は周堪と張猛に罪を着せた者を譴責しました。皆、稽首して謝ります。
『資治通鑑』胡三省によると、西漢成帝時代に尚書の定員が五人に定められます。ここで五人と言っているのは、石顕、牢梁、五鹿充宗、伊嘉、陳順が「領尚書事」を担当していることを指します。定員が決められる前ですが、五人が尚書を勤めていました。
やがて周堪は疾瘖(声が出ない病)を患い、何も言えずに世を去りました。
張猛も石顕の誣告に遭い、公車(官署)で自殺しました(周堪と張猛の没年ははっきりしません)。
以前、貢禹がこう上奏しました(貢禹は元帝初元五年・前44年に死にました。生前の出来事です)「孝恵、孝景廟は全て親(親情)が尽きているので壊すべきです。また、郡国の廟に及んでは古礼に応じていないので、正しく定めるべきです。」
元帝はこの意見に納得しました。
中央の廟を削る制度を「宗廟迭毀の礼」といいます。「迭毀」は「順に破毀する」という意味です。貢禹等は、当世の皇帝から関係が遠い廟は壊して祭祀を中止するべきだと考えました。
郡国においては、以前、恵帝が高帝廟を尊んで太祖廟とし、景帝が文帝廟を尊んで太宗廟とし、行幸した郡国に太祖・太宗廟を建ました。宣帝も武帝を尊んで世宗廟とし、巡狩した場所に世宗廟を建てました。全国で六十八の郡国に祖宗廟が建てられ、廟の数は合計百六十七カ所に上ります。しかし『春秋』の義によると「王(帝王。天子)は臣下の土地である諸侯の領では祭らない(王不祭於下土諸侯)」と考えられていたため、郡国が天子の廟を祀るのは古礼に応じていませんでした。
秋七月戊子(初十日。『漢書・元帝紀』は「九月戊子」としていますが、ここは『資治通鑑』に従って「七月」にしておきます)、昭霊后、武哀王、昭哀后、衛思后、戾太子、戾后の園の祭祀を廃止し、守衛の吏卒を削減しました(または「守衛の吏卒を置くだけにしました」。原文「裁置吏卒守焉」)。
昭霊后は高帝の母、武哀王は高帝の兄、昭哀后は高帝の姉です。衛思后は戾太子(劉據)の母・衛子夫です。戾后は戾太子の妻・史良娣です。
冬十月乙丑(十九日)、郡国の祖宗廟を撤廃しました。
諸陵を分けて三輔に属させました。
『資治通鑑』胡三省注によると、これまでは太常が諸陵を管理していましたが、今後は所在地に応じて三輔が管理することになりました。
元帝が詔を発しました「自分の土地に安んじて移住を難とするのは(安土重遷)、黎民(民衆)の性である。骨肉(親戚家族)が互いに頼りあうのは(骨肉相附)、人情が願うことである。最近、有司(官員)が臣子の義を引用し、郡国の民を遷して園陵を奉じることを上奏した。これは百姓に先祖の墳墓を遠くに棄てさせ、破産失業させ(破業失産)、親戚を別離させ、人に思慕の心を抱かせ、家に不安な心(不自安之意)を持たせることである。これによって東垂(東方。関東)は虚耗の害を被り(関東は民が減って空虚になり。または、関東の民を遷すことでいたずらな浪費を招き)、関中は無聊の民(生活の術がない民)を有すことになるので、久長の策ではない。『詩(大雅・民労)』にはこうあるではないか『民が労働したので、やっと小康を得た。中国に恵みがあり、四方を安定させる(民亦労止,迄可小康,恵此中国,以綏四方)。』
よって、最近建設を始めた初陵には、県邑を置いてはならない。天下全てに安土楽業させ、動揺の心を持たせてはならない。天下に布告して明らかに知らしめよ。」
こうして元帝の初陵には県邑を置かず、郡国の民も遷さないことになりました。
また、先后の父母の奉邑を廃しました。
しかし「先后」が誰を指すのかはよくわかりません。宣帝の皇后で元帝を育てた邛成王皇后でしょうか。
次回に続きます。