西漢時代231 元帝(十四) 昭儀 前39年
壬午 前39年
秋、潁川で洪水があり、人民が流されて死にました(潁川水流殺人民)。
官吏や従官で、出身の県が害を被った者には告(休暇)を与えました。また、士卒にも帰郷させました。
以下、『漢書・韋賢伝(巻七十三)』から韋玄成等の意見です「祖宗(高祖と太宗)の廟は世世(代々)奉じて毀壊しません(世世不毀)。継祖以下は(高祖を継いだ者の後は)、五廟を迭毀(順に毀壊すること)します。今、高皇帝は太祖となり、孝文皇帝は太宗となり、孝景皇帝は昭になり、孝武皇帝は穆になり(昭と穆は宗廟の序列です)、孝昭皇帝と孝宣皇帝は共に昭になりました。皇考廟(皇考は悼皇考・劉進を指します。宣帝の父、元帝の祖父です)は親(親情。親族の関係)がまだ尽きていません。しかし太上皇と孝恵廟は皆、親が尽きているので、壊すべきです(宜毀)。」
宗廟制度には「天子七廟」という決まりがあり、七人の祖先を祀ることになっていました。
元帝に意見を述べた者の多くが接見され、人人は皇帝の意思に沿うことができたと信じました。
傅昭儀は元は倢伃で、一男一女を生みました。劉康と平都公主です。
元帝は後宮において二人を特殊な地位にしたいと思いました。二人とも子が王になりましたが、元帝がまだ健在なので太后(王太后。国王の母)と称すわけにはいきません。そこで昭儀という号に改めて印綬を下賜し、位を倢伃の上としました。」
この記述を見ると、傅倢伃と馮倢伃は同時に昭儀になったように思えますが、実際は傅倢伃が先に昭儀になりました(具体的な時間は分かりません。本年には既に昭儀になっています)。馮倢伃が昭儀になるのは二年後の事です(元帝建昭二年・前37年参照)。
『資治通鑑』胡三省注によると、「昭儀」は「その儀を明らかにして隆重を示す(昭顕其儀,示隆重)」という意味です。後宮の序列においては皇后の次が昭儀で、その地位は丞相と同等、爵位は諸侯王に匹敵するとみなされました。
太子少傅・匡衡が上書しました「臣が聞くには、治乱安危の機(要)とは、何に留意するかを慎重に考えることにあります(帝王が何に留意するかにかかっています。原文「在乎審所用心」)。命を受けた王(開国の天子)は創業垂統(創業して大業を後世に残すこと)してそれを無窮に伝えることに務めます。継体の君(継承した天子)は先王の徳を承宣(継承・宣揚)し、その功績を褒め称えて光大にすること(褒大其功)に心を留めます。昔、(西周)成王が位を継いだ時は、文・武(文王と武王)の道を思い述べてその心を養い、休烈盛美(美しい功績と称賛)を二后(二王)に帰して名声を自分だけのものにしませんでした。そのため、上天が祭祀を受け入れ(歆享)、鬼神も祐(助け)を与えたのです。
陛下の聖徳は天が(地を)覆うのと同じで(または「陛下の聖徳は天(地)を覆い」。原文「陛下聖徳天覆」)、我が子のように海内を愛していますが、それでも陰陽が和さず、姦邪も禁じることができません。これは恐らく、議者が先帝の盛功を大いに宣揚しておらず、逆に争って(先帝の)制度を用いるべきではないと言って、変更することに務めているからです。ところが、変更した制度の中には実行できず再び戻したものもあります。その結果、群下は是非を争い(更相是非)、吏民は信じるべきところがなくなっています。国家が楽成の業(既に完成していて楽しむべき業績)を棄てて、このようにいたずらに紛紛(紛糾、混乱の様子)としていることを臣は心中で恨んでいます。陛下が統業の事(帝業)を詳覧し、遵制揚功(先帝の法制を遵守して功績を宣揚すること)に留神(留意)して、群下の心を安定させることを願います。
『詩‧大雅(文王)』にこうあります『汝の先祖を想ってその徳を修める(無念爾祖,聿脩厥徳)。』これは至徳(徳に至ること)の本(基本。根本)のはずです。『伝(『資治通鑑』胡三省注によると『詩伝』。恐らく『詩経』の注釈です)』にはこうあります『好悪をよく考えて情性(本性。性格)を正せば王道が完成する(審好悪,理情性,而王道畢矣)。』治性の道(性情を正す道)とは、必ず自分の余りを明らかにして不足を強くすることです(必ず自分の長所を考慮して正しく把握し、努力して不足を補うことです。必審己之所有余而強其所有不足)。聡明疏通の者(聡明で事象に通じた者)は太察(観察しすぎること)を戒め(戒於太察)、寡聞少見の者(見識が少ない者)は壅蔽(隔たれ隠されていること)を戒め(戒於壅蔽)、勇猛剛強の者は太暴(強暴すぎること)を戒め(戒於太暴)、仁愛温良の者は無断(決断できないこと)を戒め(戒於無断)、湛静安舒の者(冷静沈着で穏やかな者)は後時(時機を逃すこと)を戒め(戒於後時)、広心浩大の者(寛大な者)は遺忘(忘れること。不注意で失念すること)を戒める(戒於遺忘)ものです。必ず自分が戒めとするべきことを考えて把握し、義(道理。道義)によってそれを整えれば(斉之以義)、その後、中和の化が応じ(中和・和諧の境地に至り。原文「然後中和之化応」)、巧偽の徒が比周(結託)して進むことを望まなくなります。陛下がこれを戒め(戒めとするべきことを正しく知り)、それによって聖徳を崇高にすることを願います。
臣がまた聞いたところでは、室家の道が修まれば、天下の理が得られます(家を治める道が正しくなれば、国を治める道も明らかになります)。だから『詩』は『国風』で始まり、『礼』は冠・婚を本(根本)としているのです。『国風』で始まるのは、(人の)情性を追求して人倫を明らかにするためです。冠・婚を本とするのは、基兆(基礎。根本)を正すことで(基礎を定めることで)未然(の禍)を防ぐためです。だから聖王は必ず妃后の際(皇后と妃嬪の関係)を慎重にし、適長(嫡長)の位を別にしました。礼を内で行ったら、卑は尊を越えず、新は故(旧)の先にならず、こうして人情をまとめて陰気を正します(統人情而理陰気也)。適(嫡子)を尊んで庶(庶子)を卑(下)とし、適子(嫡子)は阼(台上)で冠して礼によって醴(甘酒)を用い、衆子は並列することができず、このようにして正体(嫡子)を尊貴にして嫌疑を明らかにします(嫡子の地位を疑いないものにします)。(冠礼の儀式は)いたずらに礼文を加えているだけではありません。中心(心中)からこれを殊異(異なること)としているので、礼によって内情を求めて外に示すのです。聖人が動静(行動)・游燕(游宴。遊楽)において親しむ者は、序列がなければなりません(物得其序)。そうすれば海内が自ら修まり、百姓が従化します(感化します。教化に従います)。もし親しむべき者を疎遠にし、尊ぶべき者を卑(下)にしたら、佞巧の姦が時に乗じて動き、国家を乱すことになります。だから聖人は慎んでその端(発端)を防ぎ、未然のうちに禁じて、私恩によって公義を害すことがなかったのです。『伝』は『家を正せば天下が定まる(正家而天下定矣)』と言っています。」
次回に続きます。