西漢時代232 元帝(十五) 馮倢伃 前38年

今回は西漢元帝建昭元年です。
 
西漢元帝建昭元年
癸未 前38
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月戊辰(二十九日)、梁国に隕石が落ちました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、元帝が雍を行幸し、五畤を祀りました。
 
[] 『漢書元帝紀』からです。
秋八月、白蛾が群れになって飛び、太陽を隠しました。東都門から枳道に至りました。
漢書』の注によると、長安城東面の北側の門を宣平城門といい、その外郭を東都門といいました。枳道は長安東の地名で、かつて高帝が秦王子嬰の投降を受け入れた場所です。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬、河間王劉元が不辜(無罪)の者を賊殺した罪に坐して廃され、房陵に遷されました。
 
漢書景十三王伝(巻五十三)』と『漢書・諸侯王表』によると、河間王は景帝の子劉徳(献王)が封じられました。その後、共王劉不害(または「劉不周」)、剛王劉堪(または「劉基」)、頃王劉授(または「劉緩」)、孝王劉慶と継承され、劉元に至って廃されました。
成帝時代になって孝王の子(劉元の弟)劉良が再び河間王に立てられます。これを恵王といいます。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
孝文太后と孝昭太后の寝祠園(陵園)を廃しました。
漢書』の注によると、孝文太后は文帝の母薄氏で、霸陵(文帝陵)の南に埋葬されました。孝昭太后は昭帝の母で、鉤弋趙倢伃です。雲陽甘泉宮の南に埋葬されました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
元帝が虎圈に闘獣を観に行きました。
後宮の者も皆、元帝に従って坐っています。
突然、熊が圈(柵。囲い)を越えて出てきました。檻に登って殿上に向かってきます。
元帝の左右(近臣)、貴人、傅倢伃(「傅昭儀」の誤りです。『漢書外戚伝下(巻九十七下)』では「昭儀」と書かれています)等は全て驚いて逃走しました。
しかし馮倢伃(左将軍馮奉世の娘)だけは真直ぐ前に進み出て、熊の前に立ちはだかりました。
熊が動きを止めた隙に左右の者が熊を撃ち殺します。
元帝が馮倢伃に問いました「人情では驚懼するものだ(驚き恐れるのが人の情だ)。なぜ熊の前に立ち向かったのだ?」
馮倢伃が答えました「猛獣は人を得たら止まります。妾()は熊が御坐に至るのを恐れたので、身をもって当たったのです。」
元帝は感嘆して今まで以上に馮倢伃を敬重するようになりました。
傅倢伃(傅昭儀)は慚愧し、馮倢伃との間に間隙が生まれます。
 
漢書外戚伝下(巻九十七下)』によると、翌年夏、馮倢伃の息子劉興が信都王に立てられたため(劉興は後に中山王になります)、馮倢伃を尊重して昭儀にしました。
 
 
 
次回に続きます。