西漢時代233 元帝(十六) 京房の進言 前37年(1)

今回は西漢元帝建昭二年です。三回に分けます。
 
西漢元帝建昭二年
甲申 前37
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、元帝が甘泉を行幸し、泰畤で郊祭を行いました。
 
三月、元帝が河東を行幸して后土を祀りました。
 
[] 『漢書元帝紀』からです。
三河大郡の太守の秩を増やしました。戸十二万を大郡としました。
 
漢書元帝紀』の記述だけでは理解しにくいです。
荀悦の『前漢紀・孝元皇帝紀(巻第二十三)』には「三河郡の太守の秩を増やして中二千石にした」とあります。
三河郡は十二万戸以上の大郡なので、太守の秩が「二千石」から「中二千石」になりました。
三河郡は河東、河南、河内を指します。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、天下に大赦しました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、元帝が皇子劉興を信都王に立てました。
 
前年に書きましたが、劉興の母馮倢伃が昭儀になりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
東郡の京房は梁人焦延寿に『易』を学びました。
資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代鄭武公の子段が京に封じられ、その子孫が京を氏にしました。一説では、本来、京房は李姓で、管楽器を吹き(吹律)、自ら京氏に定めたともいいます。
焦氏は周武王が神農の子孫を焦に封じ、その子孫が国名を氏にしました。しかし『左伝』には「虞、虢、焦、滑は全て姫姓」とも書かれています。
焦延寿は名を贛といい、延寿は字です。「焦贛」を「譙贛」と書くこともあります。「焦」と「譙」は同義として使われていたようです。
 
本文に戻ります。
焦延寿は京房を評価してしばしばこう言いました「わしの道(学問)を得てその身を滅ぼすのは京生(京房)だ。」
 
焦延寿の学説は災変の占に長けていました。六十卦(本来は六十四卦ですが、「震」「離」「兌」「坎」の卦は四季を主宰するため外されたようです。胡三省注に解説がありますが省略します)を一年三百六十日に分けて、それぞれの日の行事に当てはめ、風雨寒温を兆候にして占います。焦延寿が占った事はどれも的中しました(各有占験)
 
京房は特にこの学説(易学。占術)に精通しており、孝廉として郎になってからしばしば災異に関する上書をして言い当てました。
元帝はこれを悦び、何回も接見して意見を求めました。
京房が言いました「古の帝王は功績に基いて賢人を挙げたので万化(万物。万事)が成就し、瑞が応じて顕著でした。しかし末世は毀誉によって人を取ったので、功業が廃れて災異を招くようになりました。(今後は)百官に命じてそれぞれに功を試させるべきです(自分の業績を考課させるべきです)。そうすれば災異も止むでしょう。」
元帝は詔を発して京房に制度を作らせました。京房は「考功課吏法」を上奏します。
資治通鑑』胡三省注によると、令尉が一県を治めて教化を崇め(重視し)、法を犯す者がいなくなったら昇進させます。もしも盗賊がいて三日経っても発見できなかったら、尉の責任になります。県令が発見して自ら盗賊を除いたら、丞と尉が罪を負います。他の官員も同じように功罪を昇降の基準にします。
 
元帝は公卿朝臣と京房に命じて温室で討議させました。しかし皆、京房の意見は煩碎(細かくて煩わしいこと)であり、上下が互いに監督審査し合うのは許されることではないと考えました。
それでも元帝の意見は京房に傾いています。
この時、部刺史(各部の刺史。一部は一州です。武帝が十三州に刺史を置きました)が報告のために京師に来ました。そこで元帝は諸刺史を接見し、京房に課事(「考功課吏法」の事)を詳しく説明させました。ところが刺史も施行するべきではないと考えて反対しました。
御史大夫鄭弘と光禄大夫周堪だけは、始めは反対していましたが、後に賛成するようになりました。
 
当時は中書令石顕が専権しており、石顕の友人五鹿充宗が尚書令を勤めていたため、政治は二人によって動かされていました。
京房が宴見(皇帝が暇な時に謁見すること)した時に問いました「幽(周幽王と厲王)のような君(国君)はどうして(自分を)危うくしたのでしょうか(または「どのようにして危うくしたのでしょうか」。原文「何以危」)?任用したのはどのような人だったのでしょうか?」
元帝が言いました「君(国君)が不明で任用した者が巧佞だったのだ。」
京房が問いました「巧佞と知って用いたのでしょうか?それとも、賢才だと見なしていたのでしょうか?」
元帝が言いました「賢才だと見なしていたのだ。」
京房が問いました「それではなぜ今になってその不賢が分かるのでしょうか(なぜ今は彼等が賢才ではなかったと分かるのでしょうか)?」
元帝が言いました「その当時が乱れて君(国君)が危うくなったから分かるのだ。」
京房が問いました「そのようであるなら、賢才を任用したら必ず治まり、不肖を任用したら必ず乱れるのが必然の道です。幽厲はなぜそれを悟って新たに賢才を求めず、なぜ最後まで不肖を任用してそこに(滅亡の危機と混乱に)至ったのでしょうか?」
元帝が言いました「乱に臨んだ君はそれぞれ自分の臣を賢才だと思うものだ。もしも皆が覚寤(覚醒。悟ること)できたら、とうして天下に危亡の君がいるだろう。」
京房が問いました「斉桓公と秦二世もかつてはこの君(周幽王と厲王)を聞いて非笑(冷笑。嘲笑)しましたが、それなのに豎刁、趙高を任用し、政治は日に日に乱れ、盗賊が山を満たしました。なぜ幽厲を卜(先例。教訓)にして覚寤しなかったのでしょうか?」
元帝が言いました「道者(道を得た者)だけが往事を元に将来を予知できるのだ。」
京房が冠を脱いで頓首し、こう言いました「『春秋』は二百四十二年の災異を記録して万世の君に示しています。今、陛下が即位してから、日月が明を失い、星辰が逆行し、山が崩れ、泉が湧き、地が震え、石が隕ち(隕石が落ち)、夏に霜が降り、冬に雷が鳴り、春に(植物が)凋落して秋に栄え、霜が降りても殺さず(植物が枯れず)、水旱、螟蟲の害が起き、民人が饑(飢餓)(疫病)に苦しみ、盗賊を禁じられず、刑人が市を満たし、『春秋』が記載している災異を全て備えています。陛下が視るに、今は治まっていますか?乱れていますか?」
元帝が言いました「今も乱の極みである。何を言う必要があるか。」
京房が問いました「今、任用しているのは誰ですか?」
元帝が言いました「しかし(然)、幸いにも以前(周幽王、厲王の時代)よりは勝っている。それらの者(任用している者)の責任ではないのではないか。」
京房が言いました「前世の君も皆そう思ったことでしょう。臣は後の人が今を視る時、今の人が以前を視る時のようになることを恐れます。」
元帝は久しく考えてから「今、乱を為しているのは誰だ?」と問いました。
京房が言いました「明主なら自ら分かるはずです。」
元帝が言いました「分からない。もし知っているのならなぜ用いるのだ。」
京房が言いました「上(陛下)が最も信任しており、帷幄の中で事を謀り、天下の士の進退を決めている者がそれです。」
京房の言は石顕を指しています。元帝もそれに気づいて「わかった(已諭)」と言いました。
京房は退出しました。
しかし元帝は石顕を退けることができませんでした。
 
資治通鑑』の編者司馬光はこう書いています「人君の徳が不明では、臣下が忠を尽くそうと欲しても、どこから入ればいいのだ(手がつけられない。原文「何自而入乎」)。京房が孝元を諭した内容を観ると、明白切至(明確で適切)だったと言えるが、結局、悟らせることができなかった。悲しいことだ(悲夫)(後略)
 
 
 
次回に続きます。

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