西漢時代233 元帝(十六) 京房の進言 前37年(1)
甲申 前37年
三河大郡の太守の秩を増やしました。戸十二万を大郡としました。
三河郡は十二万戸以上の大郡なので、太守の秩が「二千石」から「中二千石」になりました。
三河郡は河東、河南、河内を指します。
夏四月、天下に大赦しました。
前年に書きましたが、劉興の母・馮倢伃が昭儀になりました。
東郡の京房は梁人・焦延寿に『易』を学びました。
焦氏は周武王が神農の子孫を焦に封じ、その子孫が国名を氏にしました。しかし『左伝』には「虞、虢、焦、滑は全て姫姓」とも書かれています。
焦延寿は名を贛といい、延寿は字です。「焦贛」を「譙贛」と書くこともあります。「焦」と「譙」は同義として使われていたようです。
本文に戻ります。
焦延寿は京房を評価してしばしばこう言いました「わしの道(学問)を得てその身を滅ぼすのは京生(京房)だ。」
焦延寿の学説は災変の占に長けていました。六十卦(本来は六十四卦ですが、「震」「離」「兌」「坎」の卦は四季を主宰するため外されたようです。胡三省注に解説がありますが省略します)を一年三百六十日に分けて、それぞれの日の行事に当てはめ、風雨寒温を兆候にして占います。焦延寿が占った事はどれも的中しました(各有占験)。
元帝はこれを悦び、何回も接見して意見を求めました。
京房が言いました「古の帝王は功績に基いて賢人を挙げたので万化(万物。万事)が成就し、瑞が応じて顕著でした。しかし末世は毀誉によって人を取ったので、功業が廃れて災異を招くようになりました。(今後は)百官に命じてそれぞれに功を試させるべきです(自分の業績を考課させるべきです)。そうすれば災異も止むでしょう。」
元帝は詔を発して京房に制度を作らせました。京房は「考功課吏法」を上奏します。
『資治通鑑』胡三省注によると、令・丞・尉が一県を治めて教化を崇め(重視し)、法を犯す者がいなくなったら昇進させます。もしも盗賊がいて三日経っても発見できなかったら、尉の責任になります。県令が発見して自ら盗賊を除いたら、丞と尉が罪を負います。他の官員も同じように功罪を昇降の基準にします。
それでも元帝の意見は京房に傾いています。
この時、部刺史(各部の刺史。一部は一州です。武帝が十三州に刺史を置きました)が報告のために京師に来ました。そこで元帝は諸刺史を接見し、京房に課事(「考功課吏法」の事)を詳しく説明させました。ところが刺史も施行するべきではないと考えて反対しました。
京房が宴見(皇帝が暇な時に謁見すること)した時に問いました「幽・厲(周幽王と厲王)のような君(国君)はどうして(自分を)危うくしたのでしょうか(または「どのようにして危うくしたのでしょうか」。原文「何以危」)?任用したのはどのような人だったのでしょうか?」
京房が問いました「巧佞と知って用いたのでしょうか?それとも、賢才だと見なしていたのでしょうか?」
元帝が言いました「賢才だと見なしていたのだ。」
京房が問いました「それではなぜ今になってその不賢が分かるのでしょうか(なぜ今は彼等が賢才ではなかったと分かるのでしょうか)?」
京房が問いました「そのようであるなら、賢才を任用したら必ず治まり、不肖を任用したら必ず乱れるのが必然の道です。幽・厲はなぜそれを悟って新たに賢才を求めず、なぜ最後まで不肖を任用してそこに(滅亡の危機と混乱に)至ったのでしょうか?」
京房が問いました「斉桓公と秦二世もかつてはこの君(周幽王と厲王)を聞いて非笑(冷笑。嘲笑)しましたが、それなのに豎刁、趙高を任用し、政治は日に日に乱れ、盗賊が山を満たしました。なぜ幽・厲を卜(先例。教訓)にして覚寤しなかったのでしょうか?」
京房が冠を脱いで頓首し、こう言いました「『春秋』は二百四十二年の災異を記録して万世の君に示しています。今、陛下が即位してから、日月が明を失い、星辰が逆行し、山が崩れ、泉が湧き、地が震え、石が隕ち(隕石が落ち)、夏に霜が降り、冬に雷が鳴り、春に(植物が)凋落して秋に栄え、霜が降りても殺さず(植物が枯れず)、水・旱、螟蟲の害が起き、民人が饑(飢餓)・疫(疫病)に苦しみ、盗賊を禁じられず、刑人が市を満たし、『春秋』が記載している災異を全て備えています。陛下が視るに、今は治まっていますか?乱れていますか?」
元帝が言いました「今も乱の極みである。何を言う必要があるか。」
京房が問いました「今、任用しているのは誰ですか?」
京房が言いました「前世の君も皆そう思ったことでしょう。臣は後の人が今を視る時、今の人が以前を視る時のようになることを恐れます。」
元帝は久しく考えてから「今、乱を為しているのは誰だ?」と問いました。
京房が言いました「明主なら自ら分かるはずです。」
元帝が言いました「分からない。もし知っているのならなぜ用いるのだ。」
京房が言いました「上(陛下)が最も信任しており、帷幄の中で事を謀り、天下の士の進退を決めている者がそれです。」
京房は退出しました。
しかし元帝は石顕を退けることができませんでした。
『資治通鑑』の編者・司馬光はこう書いています「人君の徳が不明では、臣下が忠を尽くそうと欲しても、どこから入ればいいのだ(手がつけられない。原文「何自而入乎」)。京房が孝元を諭した内容を観ると、明白切至(明確で適切)だったと言えるが、結局、悟らせることができなかった。悲しいことだ(悲夫)。(後略)」
次回に続きます。