西漢時代234 元帝(十七) 京房の死 前37年(2)

今回は西漢元帝建昭二年の続きです。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
元帝が京房に命じて弟子の中で考功課吏の事(功績を評価して官吏を考課すること)に精通している者を推挙させました。試しに彼等(または考課の制度)を用いようとします。
京房が言いました「中郎の任良、姚平を刺史にして考功の法を試すことを願います。臣は通籍(宮門に登記すること。入宮すること)して殿中で奏事し(地方の報告を上奏し)、壅塞(塞がること。ここでは意見が皇帝に伝わらないことです)を防ぐ必要があります。」
しかし石顕、五鹿充宗等は京房を嫌っており、遠くに出したいと思っていたため、「京房に郡守の職を試させるべきです」と建議しました。
元帝は京房を魏郡太守に任命し、考功法を使って郡を治めることを許可しました。
漢書眭両夏侯京翼李伝(巻七十五)』によると、京房の秩は八百石です(本来、郡守の秩は二千石です)
 
京房は元帝に「歳が終わる時、伝(駅車)に乗って奏事(報告)させてください」と請いました。
元帝はこれを許可します。
漢書眭両夏侯京翼李伝』によると、京房は更に「刺史の下に属さないこと」「他の郡の者でも任用できること」「千石以下の官吏は自分で考課すること」の許可も請いました。元帝は全てに同意します。
郡守は本来、刺史の監督を受けますが、刺史に属さず自ら報告に来るというのは、自分の成果を曲げて報告されることを警戒したからです。
 
京房は論議においてしばしば大臣に批難されたことも、石顕等との間に対立があることも自覚していたため、元帝の左右から遠くに離れることを望みませんでした。
そこで元帝に封事(密封の上書)しました「臣が出発した後、用事(政治を行う重臣に妨害され、身が死んで功が成せないことを恐れます。そのため歳が尽きたら伝に乗って奏事することを願い、哀憐を蒙って許されました。しかし辛巳(六月二十日)に蒙気が再び乗る卦があり、太陽が侵色されました(原文「蒙気復乗卦太陽侵色」。恐らく厚い雲が出て太陽が光を失ったという意味です。胡三省注に解説がありますが省略します)。これは上大夫が陽を覆って上(天子)の意に疑いが生まれることを意味します。己卯(十八日)、庚辰(十九日)の間に隔絶を欲する臣が現れて、伝に乗って奏事に来ることをできなくさせたはずです。」
 
果たして、京房が出発する前に、元帝は陽平侯王鳳に命じて京房に制詔を届けさせ、伝に乗って奏事に来る必要がないことを伝えました。
京房はますます恐れます。
王鳳は陽平侯王禁の子で、王禁は元帝の皇后(王政君)の父です元帝初元元年48年参照)。『漢書外戚恩沢表』によると、王禁の諡号は頃侯です。王鳳は元帝永光二年(前42年)爵位を継ぎました。諡号は敬成侯です。
 
秋、京房が出発して新豊に入りました。そこで郵(文書を伝送する者)を使ってまた封事しました「臣は以前、六月中の『遯卦(上述の京房を妨害する者が現れるという占だと思います)』を話して效(効果)がありませんでした。法(占の法)はこう言っています『道人(道術を得た者)が去ったばかりの時、寒冷になって水が涌き出し、災害になる(道人始去,寒涌水為災)。』果たしてこの七月に至ってから水が涌き出しました。そこで臣の弟子姚平が臣に言いました『房(あなた)は道を知っていると言えますが、道を信じているとは言えません。房(あなた)が災異を語ったら中らなかったことがなく、既に水が涌き出ました。道人(京房)は放逐されて死ぬはずです。これ以上まだ何を言うのですか(あなたは自分の占いで自分が死ぬことを知っているのに、これ以上、何を進言するのですか)。』臣はこう言いました『陛下は至仁であり、臣をとても厚く遇している。たとえ進言して死んだとしても、臣はまだ進言する。』姚平がまた言いました『房(あなた)は小忠と言うべきで、大忠とは言えません(『資治通鑑』胡三省注によると、「小忠」は諫言して殺されても国にとって益がありません。「大忠」は諫言が実行されて身も国も共に福があります)。昔、秦の趙高が用事(政治を行うこと)した時、正先(正が氏、先が名。『資治通鑑』胡三省注によると秦の博士です。正氏は宋の上卿正考父の子孫です)という者がおり、趙高を非刺(風刺。批判)して死んだため、趙高の威がここから形成されました。だから秦の乱は正先が促したのです。』今、臣は(朝廷を)出て郡を守ることになり、效功(官員の考課。または尽力すること)を自分の任務としていますが(自詭效功)、成果が出る前に死ぬことを恐れます。陛下が臣に涌水の異(水が涌き出した異変)を塞がせ(臣を使って異変の予言に応じさせ。臣に異変の責任を取らせ)、正先のように死なせて姚平に笑われないことを願います。」
 
京房が陝に入ってからまた封事しました「臣は以前、任(任良、姚平)を出して考功を試させ、臣は内にいることを願って建議しましたが、議者はそうすることが自分の不利になると知っており、そうなったら臣(と陛下)を隔てることもできないので、『弟子を使うより師を試すべきです』と言いました。また、臣を刺史にしたら臣が自ら奏事するので、『刺史にしたら太守と同心(協力)できない恐れがあるから、太守にするべきです』と言いました。これは臣を隔絶するのが目的です。陛下はその(群臣の)言に違えず採用しました。そのために蒙気が解かれず、太陽が色を無くしているのです。臣が少し遠くに離れたら、太陽の侵色がますますひどくなりました(太陽がますます暗くなりました)。陛下が臣の召還を難とせず、天意への背逆を易(容易)としないことを願います。邪説は人の間では安んじられますが(邪説は人々には気づかれませんが)、天の気は(邪説に感応して)必ず変化します。だから人は欺けても天は欺けないのです。陛下の明察を願うだけです。」
 
しかし京房が去って一月余が経ってから、京房は朝廷に召されて獄に下されます。
 
淮陽憲王劉欽元帝の弟。宣帝張倢伃の子)の舅(母の兄弟)張博は傾巧無行(狡猾で素行が悪いこと)で、頻繁に淮陽王から金銭を求め、京師で淮陽王が入朝する機会を得るために動いていました。
 
張博は京房に学び、娘を京房に嫁がせました。
京房は朝見が終わって帰ると、いつも張博に元帝と話したことを語ります。
張博は京房が語った密語を記録しました。
 
漢書眭両夏侯京翼李伝』によると、京房は朝廷に佞臣がいるため自分の意見が採用されないことを語りました。張博は元帝の弟で能力もある淮陽王を入朝させれば京房の助けになると話します。
京房も淮陽王が入朝すれば佞臣が去って「考功課吏法」も実施できるようになると考えました。
 
資治通鑑』に戻ります。
張博は京房に淮陽王の入朝を求める奏草(上奏文の下書き)を書かせました。張博は密語と奏草を全て持って帰国し、淮陽王に渡して朝廷内の事情に通じていることの証としました。
漢書宣元六王伝(巻八十)』によると、張博は淮陽王にこう話しています「最近聞いたところでは、陛下は春秋が四十を満たさないのに(四十歳にもなっていないのに)、髪も歯も墮落しており、太子は幼弱で、佞人が用事し(政治を行い)、陰陽が調和せず、百姓で疾疫飢饉による死者はおよそ半数に上り、鴻水の害(顔師古注によると堯の時代の水害)も恐らくこれを越えません。大王の緒(業)は救世を欲しており、(古の帝王と)功徳を較べてどうして忘れられることがあるでしょう(古の帝王の功徳にも匹敵します)。博(私)は既に大儒で道を知る者(京房)と共に大王のために時機を見て上奏し、安危を述べ、災異を指摘しました。大王が朝見する時は、先にその意(大意)を口述し、後から上奏してください。上(陛下)は必ず大喜びします。事がなって功が立ったら、大王には周西周の周公召公)の名があり、邪臣は散亡し、公卿は節を変え、功徳が並ぶ者がなくなり、梁(『漢書』の注によると、梁王は景帝の弟・劉武、趙王は高帝の子劉如意です)の寵が必ず大王に帰して外家(母や妻の実家。ここでは張氏)も富貴になります。(後略)
淮陽王は喜んで張博に金五百斤を与えました。
 
張博の動きを知った石顕は、京房がいない間に訴えてこう言いました「京房と張博は謀を通じて政治を非謗し、悪を天子に帰し、諸侯王を詿誤(巻添えにすること。誤らせること)しています。」
 
京房と張博は獄に下されて棄市に処されました。妻子は辺境に遷されます。
漢書元帝紀』では、張博と京房は「秘かに諸侯王を邪意に導き、省中(禁中)の語を漏洩した罪」に坐し、張博は要斬(腰斬)に、京房は棄市に処されています。
 
鄭弘も京房と仲が善かったため、御史大夫を免じて庶人に落とされました。
淮陽王は譴責されましたが、廃位はされませんでした。
 
 
 
次回に続きます。