西漢時代235 元帝(十八) 石顕 前37年(3)
御史中丞・陳咸がしばしば石顕を批判しました。
久しくして、陳咸はかねてから仲が善い槐里令・朱雲に省中(禁中)の語を漏洩したという罪に坐しました。石顕が秘かに陳咸を探って知ったことです。
陳咸と朱雲は獄に下され、髠(髪や髭を剃る刑)のうえ城旦(城壁の修築や警護をする刑。苦役)に処されました。
当時は中書令・石顕が政治を行っており、五鹿充宗と党を組んでいました。
朱雲はしばしば上書し、丞相・韋玄成が身を守って位を保っているため正しい人材を任用できない(原文「亡能往来」。「往来」は「進退」「人材を推挙したり退けること」を意味します)と訴えました。陳咸も頻繁に石顕を批判しています。
久しくして、有司(官員)が朱雲を審問しました。朱雲が吏(部下の官吏)を示唆して人を殺させたという疑いです。
丞相・韋玄成は朱雲を「暴虐亡状(暴虐で善行がない)」と評価します。
この時、陳咸も朝見に参加しており、丞相の報告を聞いたため、槐里県の朱雲に伝えました。
朱雲は弁解の上書をすることにしました。陳咸が奏草(上奏文の下書き)を準備して、この件を御史中丞(陳咸自身)に裁かせるように求めます。
朱雲は逃走して長安に入り、再び陳咸と計を練りました。
丞相はこれらの事を全て調査して明らかにし、こう上奏しました「陳咸は宿衛・執法の臣であり、幸いにも進見(皇帝に謁見すること。または朝廷で仕えること)を得たのに、聞いたことを漏泄(漏洩)し、個人的に朱雲に語り、彼のために奏草を定め、この案件を自分に下して治めさせる(裁かせる)ように欲しました。後には朱雲が亡命(逃亡)した罪人であると知りながら、彼と交通したので(結んだので)、朱雲を得られませんでした(逮捕できませんでした)。」
石顕の威権は日に日に盛んになり、公卿以下が石顕を畏れて自由に動けなくなりました(原文「重足一迹」。恐れて足が出ず、両足が重なって足跡が一つになる状態です。恐懼を意味します)。
そのため、民はこう歌いました「(あなたが頼ったのは)牢氏か?石氏か?五鹿の客か?なぜ官印が積むほど多く、綬帯がそれほど長いのだ(牢邪,石邪,五鹿客邪。印何累塁,綬若若邪)。」
この時、石顕はあらかじめ元帝に「漏が尽きるのに間に合わず(門限に間に合わず。「漏」は水時計です。「漏が尽きる(尽漏)」は決められた時間になることを意味します)、宮門が閉められる恐れがあります。(臣が)詔を使って吏に開門させることを許してください」と言いました。
元帝はこれを許可しました。
そこで、石顕はわざと夜遅くになってから還り、詔と称して門を開かせ、中に入りました。
果たして、後にある者が上書しました「石顕は専命(命がないのに勝手に行動すること)しており、矯詔(偽りの詔)によって宮門を開かせました。」
これを聞いた元帝は笑って上書を石顕に見せました。
石顕はこの機を利用し、泣いて言いました「陛下が過度に小臣を寵愛し(または「誤って小臣を寵愛し。」原文「過私小臣」)、事を属任(委任)しているので、群下で嫉妬して臣を陷害したいと思わない者はなく、このような事は一度だけではありません。ただ明主が(臣の忠誠を)知っているだけです。愚臣は微賎なので、誠にこの一躯(体)をもって万衆(万民)に称快(愉快になること)させることはできず、天下の怨を負担することもできません。臣は枢機の職を返し、後宮の掃除の役(任務)を受けることを願います。たとえ死んでも恨みはありません。陛下が哀憐によって財幸(採用。「財」は「裁」と同義です)し、そうすることで小臣の活(命)を全うすることを請います。」
以前、石顕は衆人が盛んに議論する声を聞きました。人々は石顕が前将軍・蕭望之を殺した事を批難しています。石顕は天下の学士が自分を誹謗することを恐れました。
当時は諫大夫・貢禹が経文に明るくて節を守っていたため、石顕は人を送って誠意を伝え、深く貢禹と結んでから元帝に推挙しました。貢禹は九卿の位を歴任します。石顕が礼を用いて周到に仕えたため、議論していた者達の中には石顕を称える者も現れ、石顕が蕭望之の才能を嫉妬したわけではなかったと信じました(貢禹が死んだのは元帝初元五年(前44年)なので、それ以前の事です)。
石顕が変詐(謀略詐術)を設けて自分を弁明し、人主の信用を得る様子は、全てこのようでした。
樹が倒れて家屋が倒壊しました。
次回に続きます。