西漢時代236 元帝(十九) 甘延寿と陳湯 前36年(1)

今回は西漢元帝建昭三年です。二回に分けます。
 
西漢元帝建昭三年
乙酉 前36
 
[] 『漢書元帝紀』からです。
夏、元帝が令を下し、三輔都尉と大郡(十二万戸以上の郡)の都尉の秩を全て二千石にしました。
 
漢書・百官公卿表上』によると、都射の秩は本来「比二千石」でした。
同じ二千石でも、上から「中二千石」「二千石」「比二千石」の差がありました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月甲辰(十九日)、丞相扶陽侯韋玄成(共侯)が死にました。
 
秋七月、御史大夫匡衡を丞相に任命しました。
漢書匡張孔馬伝(巻八十一)によると、この時、匡衡は楽安侯に封じられました。食邑は六百戸です。
 
戊辰(十四日)、衛尉李延寿(『漢書百官公卿表上下』によると、一説では「繁延寿」といいます)御史大夫にしました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬、漢朝廷が西域都護騎都尉北地の人甘延寿と副校尉山陽の人陳湯に命じて共に康居にいる郅支単于を誅殺させました(実際は朝廷の指示ではなく、甘延寿と陳湯の判断で郅支単于を撃ちました。以下、詳述します)
 
郅支単于は自分が統治する北匈奴が大国で、威名が尊重されていると信じており、また、度重なる戦勝によって驕慢になっていました。
資治通鑑』胡三省注によると、郅支単于はかつて閏振単于を破って殺し、呼韓邪単于を敗退させ、更に伊利目単于も殺し、烏孫兵にも連勝しました。そのため驕慢になりました。
 
郅支単于は康居王が礼を用いなかったため、怒って康居王の娘(郅支単于の妻)および貴人、人民数百人を殺し、ある者は支解(四肢をばらばらにすること)して都賴水に投げ捨てました。
また、郅支単于は民を動員して築城し、毎日五百人に労働させて二年で完成させました。
更に使者を送って闔蘇(『資治通鑑』胡三省注によると、康居の北約千里に奄蔡という国があり、一名を闔蘇といいました)、大宛等の諸国を譴責し、毎年の貢物を要求しました。諸国は単于に逆らうことができず、貢物を献上します。
 
漢は康居に使者を三回派遣して谷吉等の死体を求めました。
しかし郅支単于は使者を困辱(困窮させて辱めること)し、漢の詔を奉じようとしません。
単于は西域都護を通じて漢に上書し、戯れてこう言いました「困戹(困苦)の地に住んでいるので、強漢に帰計(帰順して計を聴くこと)し、子を送って入侍させることを願います。」
もちろん、郅支単于が漢に帰順するつもりはありません。郅支単于の驕嫚な態度を現しています。
 
副校尉陳湯は沈勇(沈着勇敢)で大慮(大計)があり、策略も多く、奇功を望んでいました。
そこで甘延寿と謀って言いました「夷狄が大種(大族。匈奴を畏服するのは天性です。西域は元々匈奴に属しており(『資治通鑑』胡三省注によると、武帝が西域と通じましたが、西域はまだ匈奴に服属していました。宣帝時代になって呼韓邪単于が漢に朝見し、日逐王も降ったため、西域の全てが漢に属すようになりました)、今は郅支単于の威名が遠くに聞こえ、烏孫、大宛を侵陵(侵略)して常に康居のために計を画し、これらを降服させようと欲しています。もし(郅支単于)この二国を得たら、数年の間で城郭諸国が危うくなります。またその人(郅支単于は剽悍で戦伐を好み、しばしば勝利を得ています。久しくこれを養ったら(久しくそのまま成長させたら。原文「久畜之」)、必ず西域の患となります。その地は絶遠の場所にありますが、蛮夷には金城も強弩の守りもありません。もし屯田の吏士(車師の屯田兵を動員し、烏孫の衆兵を駆って従わせ、直接その城下を目指せば、彼等は逃走しても行く場所がなく(彼亡則無所之)、守っても自らを保つには足りません(守る力がありません。原文「守則不足自保」)。千載の功が一朝にして成せます。」
甘延寿は納得して上奏しようとしました。
しかし陳湯はこう言いました「国家(天子)と公卿が議しても、大策は凡人に見えるものではないので(大策は凡人に理解できるものではないので。原文「大策非凡所見」)、同意するはずがありません。」
甘延寿は躊躇して陳湯の意見を採用しませんでした。
 
甘延寿が久しく病を患いました。
陳湯は単独で矯制(皇帝の命令を偽ること)して城郭諸国の兵(西域で城郭を築いて定住している国の兵)と車師に駐留する戊己校尉の屯田吏士を動員しました。
それを聞いた甘延寿は驚いて起き上がり、出兵を止めようとしました。
すると陳湯は怒って剣に手を置き、甘延寿を叱咤して言いました「大衆は既に集会(集結合流)した。豎子(未熟な若者)は衆(大軍)を妨害するつもりか!」
甘延寿は陳湯に従いました。
 
二人は軍の配置を定めました(部勒行陳)。漢兵、胡兵(西域の兵)四万余人が集結します。
甘延寿と陳湯は自ら矯制したこと(皇帝の命を偽って兵を動員したこと)を弾劾する上書をし、用兵の状況を朝廷に報告しました。
即日、軍を分けて進軍を開始します。それぞれの部隊は六校が統率しました。
資治通鑑』胡三省注によると、甘延寿と陳湯は陽威、合騎、白虎の三校を設けました。これに副校尉、戊校尉、己校尉を合わせて六校になります。
 
三校は南道を進んで葱領を越え、大宛に至りました。
別の三校は都護甘延寿が自ら率い、温宿国を出て北道から赤谷烏孫の都)に入り、烏孫を越え、康居境界を渡って闐池の西に至ります。
資治通鑑』胡三省注によると、温宿国から東二千三百八十里に西域都護の治所があり、北六百十里に烏孫の国都赤谷城がありました。
 
この時、康居副王抱闐が数千騎を率いて赤谷城東を侵しており、大昆彌の民千余人を殺略して多数の畜産を奪いました。
その後、漢軍に遭遇して後ろに続く輜重部隊から大量な食糧物資を奪いました。
 
しかし陳湯が胡兵を放って康居軍を攻撃させました。四百六十人を殺し、康居軍が奪った民四百七十人を取り返して大昆彌に返します。奪った馬、牛、羊は軍の食糧にしました。
更に抱闐の貴人伊奴毒を捕らえました。
 
漢軍は康居の東界に入ってから兵に略奪を禁じさせました。
秘かに貴人屠墨を招いて会見し、威信を見せて諭します。漢軍は屠墨と酒宴を開き、盟を結んでから帰らせました。
 
その後、更に行軍して単于城から約六十里離れた場所で営を構えました。
ここで新たに康居の貴人具色(または「貝色」)の子男(息子)開牟を捕えて先導させました。開牟は屠墨の母の弟に当たります。
開牟も屠墨も単于を怨んでいたため、郅支単于の状況を詳しく報告しました。
翌日、漢軍が行軍を続けて単于城から三十里離れた場所で営を構えました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代237 元帝(二十) 郅支単于滅亡 前36年(2)