西漢時代237 元帝(二十) 郅支単于滅亡 前36年(2)

今回は西漢元帝建昭三年の続きです。
 
[(続き)] 郅支単于が使者を送って漢軍に問いました「漢兵は何をしに来たのだ?」
漢軍が答えました「単于は上書して『困戹(困苦)の地に住んでいるので、強漢に帰計(帰順して計を聴くこと)し、身を(漢に)入れて朝見することを願います(先述の内容と少し異なります)』と言った。天子は単于が大国を棄て、康居で意を屈しているのを哀憐したので、都護将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、甘延寿は西域都護で将軍号はありません。しかし兵の将となっているので将軍と称しています。東漢光武帝の時代に賈復が都護将軍になります。但しこの都護は諸将を監護するという意味で、西域都護ではありません)単于の妻子を迎えに来させたのだ。しかし単于の)左右が驚動するのを恐れたから、敢えてまだ城下に至っていない。」
双方の使者が何度も往来してやり取りを繰り返しました。
甘延寿と陳湯が単于の使者を譴責して言いました「我々は単于のために遠くから来たのに、今に至るまで、名王(『資治通鑑』胡三省注によると、匈奴諸王の中でも尊貴な者)、大人で将軍に会いに来て受事(命を受けて仕えること)した者がいない。なぜ単于は大計を疎かにして客主の礼を失うのだ。我が兵(軍)は遠い道を来たため、人畜の疲労が極まり、食糧ももう尽きるはずだ。恐らく自力で還ることはできない。単于と大臣が計策を熟考することを願う。」
 
翌日、漢軍が前進して郅支城単于城)付近の都賴水まで来ました。城から三里離れた場所で営を構えて陣を布きます。
単于城を眺め見ると、城壁の上に五采の幡幟(五色の旗)が立ち、数百人が甲冑を着て守っていました。また、百余騎を出して城下で駆けながら往来させており、歩兵百余人が門を挟んで魚鱗陣を敷き、用兵の演習をしています。
城壁の上の匈奴兵が代わる代わる漢軍を挑発して「攻めて来い(闘来)!」と言いました。
百余騎が漢営に向かって駆けてきます。
しかし漢営の兵が皆、弩をいっぱいに引いて騎兵に向けると、騎兵は引き上げました。
 
漢軍は一部の吏士を出して城門の匈奴騎兵と歩兵を射ました。騎兵も歩兵も城内に入ります。
甘延寿と陳湯が軍令を出しました「鼓の音を聞いたら皆、城下に迫れ。四面から城を囲んでそれぞれの部署を守り、𡐛塹壕を掘って門戸を塞げ。鹵楯(大楯)が前になり、戟弩が後になり、城楼の上にいる人を仰ぎ射よ。」
 
漢軍の攻撃が始まると、楼上の人は全て下に走りました。
単于城の内城は土城で、外に重木城がありました(重木城というのは木で造った壁、または柵のようです。「重」は「重なる」の意味で、二重になっていました)匈奴兵は木城の中から矢を射て外にいる多くの兵を殺傷します。
これに対して外の兵は薪を集めて木城に火を放ちました。
夜、匈奴の数百騎が城外に脱出しようとしましたが、外の兵が迎え撃って矢で射殺しました。
 
郅支単于は漢兵が至ったと聞いた時、逃走しようとしました。しかし康居が自分を怨んで漢のために内応することを疑い、また、烏孫諸国も皆兵を発したと聞いたため、行く場所がないと判断しました。
郅支単于は一度城を出ましたが、引き返してこう言いました「堅守した方がいい。漢兵は遠くから来たから、久しく攻めることはできない。」
単于は自ら甲冑を着て楼上に登り、諸閼氏や夫人数十人も皆、弓を持って外の兵を射ました。
しかし外の兵が射た矢が単于の鼻に中り、諸夫人の多くも死んだため、単于は楼から降りました。
 
夜半を過ぎた頃、木城が破られました。
木城の中にいた兵は土城に退き、城壁に登って叫びます。
この時、単于を援けに来た康居の兵一万余騎が十余個所に分散しており、城を囲んで四面に駐軍していました(漢軍の外側に康居軍がいます)。城壁で匈奴兵が叫ぶと、康居兵もそれに応じて喚声を上げます。
 
夜の間に康居兵が数回、漢営に突撃しましたが、利を得られずことごとく退却しました。
平明(空が明るくなる頃)、四面で火が起きました(火が起きたのが土城の四面なのか康居軍の四面なのかわかりません。民国時代蔡東藩の『前漢演義』は、「陳湯が秘かに裨将を康居軍の後ろに派遣し、火を放って挟撃するように命じた」と書いています)。漢の吏士は喜んで大呼し、この機に乗じます。鉦鼓の音が轟いて地を動かしました。
康居兵は撤退しました。
 
漢兵は四面から鹵楯(大楯)を推して並進し、土城に入りました。
単于と男女百余人が大内単于の内室)に入ります。
漢兵が火を放ち、吏士が争って攻め入りました。単于は傷を負って死亡します。軍候假丞杜勳が単于の首を斬りました。
資治通鑑』胡三省注によると、各部(部隊)には校尉がおり、部の下に曲があって曲には軍候が一人いました。都護には副校尉がおり、秩は比二千石です(西域都護は加官なので秩の決まりがありません。甘延寿の本官は騎都尉で、秩は比二千石です。『漢書百官公卿表上』によると、西域都護は騎都尉か諫大夫が勤めました。騎都尉の秩は比二千石なので副校尉と同じ、諫大夫の秩は比八百石なので副校尉の下になります。騎都尉と諫大夫は光禄勳に属しました)。その他に丞一人と司馬千人が各二人いました。杜勳は元々軍候で假丞(丞代理)になりました。
 
漢軍は漢の使者が持つ符節二本と谷吉等が携帯していた帛書を得ました。
鹵獲(戦利品)はそれを得た者に与えます。
匈奴の閼氏、太子、名王以下、千五百十八級を斬り、百四十五人を生け捕りにしました。投降した者は千余人に上ります。これらは全て兵を発した城郭諸国の十五王に与えました。
こうして郅支単于の勢力が滅亡しました。
 
漢書元帝紀』はここで「郅支単于の首を斬り、伝車で京師に送った。首を蛮夷邸の門に掲げた」と書いています。『資治通鑑』は翌年に書いているので、翌年再述します。
 
 
 
次回に続きます。