西漢時代238 元帝(二十一) 太子劉驁 前35~34年

今回は西漢元帝建昭四年と五年です。
 
西漢元帝建昭四年
丙戌 前35
 
[] 『漢書傅常鄭甘陳段伝(巻七十)』と『資治通鑑』からです。
春正月、郅支単于の首が京師に届きました。
 
甘延寿と陳湯が上書しました「臣が聞くに、天下の大義は統一にあります(天下之大義当混為一)。昔は唐(堯舜)がおり、今は強漢が存在しています。匈奴呼韓邪単于は既に北藩を称し、郅支単于だけが叛逆してその辜(罪)に伏さず、大夏(『資治通鑑』胡三省注によると、西域の国名で、大宛の西南にありました)の西におり、強漢でも(郅支単于を)臣服させることができないと考えていました。郅支単于は民に惨毒(惨酷なこと)を行い、大悪が天に通じました。そこで臣延寿、臣湯が義兵を指揮して天誅を行ったところ、陛下の神霊のおかげで陰陽が共に応じ、天気が精明になり、陣を落として敵に勝ち(陷陳克敵)、郅支の首および名王以下を斬ることができました。その頭を槀街(街路名)の蛮夷邸(客館)の間に懸けて万里に示し、強漢を犯した者はたとえ遠くても必ず誅されることを明らかにするべきです。」
 
元帝が有司(官員)に討議させると、丞相匡衡等が反対しました。
丞相匡衡、御史大夫繁延寿(李延寿)が言いました「郅支および名王の首は諸国を更歴(経由)して来たので、蛮夷で知らない者はいません。『月令礼記』では、春は掩骼、埋胔(暴露された死体を埋めること。骼は骨、胔は肉です)の時です。(首を)懸けるべきではありません。」
車騎将軍許嘉と右将軍王商(楽昌侯。王武の子。王武は宣帝の母の兄弟です)が言いました「春秋の夾谷の会(東周敬王二十年500年参照)では、優施(俳優施。施は名です)が君を笑ったので、孔子がこれを誅しました。ちょうど盛夏の時、首と足が異なる門から出されました。十日間懸けてから埋めるべきです(なぜ十日間の見せしめが必要という結論になるのか分かりません。春でも見せしめは必要という意味かもしれません)。」
元帝は詔を発し、両将軍の意見に従いました。
郅支単于の首は十日間見せしめとして掲げられてから埋葬されました。
 
漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
元帝は郅支単于を誅殺したことを郊廟に報告して祭祀し、天下に大赦しました。
群臣が祝賀して酒宴が開かれます。
元帝は郅支単于を討伐する様子が描かれた絵を後宮の貴人に見せました。
 
[] 『漢書元帝紀』からです。
夏四月、元帝が詔を発しました「朕は先帝の休烈(美業)を継承したので、夙夜(朝から夜まで)栗栗(戦戦兢兢)とし、任に克てないことを懼れている。最近、陰陽が調和せず、五行が序(秩序)を失い、百姓が饑饉に遭遇した。そこで烝庶(庶民)の失業を思い、諫大夫博士・賞(人名)等二十一人を臨遣(皇帝自ら命を与えて派遣すること)して天下を循行させ、耆老(老人)・鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りがない老人)・乏困失職の人を存問(慰問)し、茂材(秀才)・特立(孤高。志節を堅守している者)の士を挙げさせた。相将九卿は(朕の)意に従って怠ることなく(帥意毋怠)、朕が教化の流(状況)を観られるようにせよ。」
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月甲申(初五日)、中山王・劉竟(哀王)が死にました。
 
中山哀王は元帝の少弟(末の弟)で、太子劉驁と一緒に游学(遊んだり学習すること)して成長しました。
劉竟が死んでから、太子が弔問に来ました。
元帝は遠くから来る太子を眺め見ると、哀王のことを想って自制できないほど悲しみました。ところが元帝の前まで来た太子には悲哀の様子が見られません。元帝は太子を憎んでこう言いました「慈仁ではない人で、宗廟を奉じて民の父母となれる者がどこにいるか!」
当時は駙馬都尉侍中史丹が太子家を監護していたため、元帝は史丹に話して譴責しました。
史丹は冠を脱いで謝罪し、こう言いました「臣は陛下が中山王を哀痛して感損(悲哀のため体を損なうこと)に至っているのを見ました。そこで先ほど、太子が進見(謁見)することになった時、臣が秘かに(太子に)戒属(戒嘱。忠告)し、涕泣して陛下を感傷(悲傷)させることがないように諭しました。罪は臣にあり、死に値します。」
元帝は納得して怒りを鎮めました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
藍田で地震があり、山が崩れ、沙石で霸水が塞がりました。
安陵の岸も崩れて涇水が塞がり、川の水が逆流しました。
資治通鑑』胡三省注によると、藍田県は京兆に属します。霸水は藍田県藍田谷から出て霸陵県を通り、西北に向かって渭水に入ります。
安陵岸は恵帝陵の傍を流れる涇水の岸です。
 
 
 
西漢元帝建昭五年
丁亥 前34
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
春三月、元帝が詔を発しました「明王の治国(国を治める様子)とは、好悪(善悪)を明らかにして去就(行動。または行動の基準)を定め、敬讓を崇めて(重視して)民が興行し(感化されて行いを正し)、そのため法を設ければ民が犯すことなく、令を施せば民がそれに従うようになったと聞いている。今、朕は宗廟を保つことになり、兢兢業業(「兢兢」は慎重なこと。「業業」は懼れること)として解怠(怠惰になること)できずにいるが、徳が薄くて視界が暗く(徳薄明晻)、教化が浅微(浅くて少ないこと)である。『伝論語』にこうあるではないか『百姓に過ちがあったら、予一人(天子)に責任がある(百姓有過,在予一人)。』よって天下を赦し、民に爵一級を、女子には百戸ごとに牛酒を、三老孝弟(悌)力田には帛を下賜する。」
こうして大赦が行われました。
 
元帝がまた詔を発しました「今はちょうど春の農桑(農業)を興す時期で、百姓が力を尽くす(勠力自尽)時である。よって、この月は労農勧民し(民を慰労して農業を奨励し)、時に遅れさせてはならない(農時に影響を与えさせてはならない)。今、不良の吏は小罪を覆案(調査。追及)するために(民を)徵召して案件の証言をさせ、不急の事(急ぐ必要がない事)を興して百姓を妨害し、一時の作(農作)を失わせて終歳の功(一年の収穫)を無くしている。よって公卿はこれを明察して申敕(訓戒)せよ。」
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
夏六月庚申(十七日)、戾園(劉據の陵園)を元に戻しました元帝永光四年40年参照)
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
壬申晦、日食がありました。
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
秋七月庚子(二十八日)太上皇(高帝の父)の寝廟園と原廟(正廟以外の廟。ここでは高祖の原廟を指します。『漢書』の注によると、高祖廟は長安城内にありましたが、恵帝が渭北にも廟を造りました。これが原廟です。「原」には「再」の意味があります)および昭霊后(高帝の母)、武哀王(高帝の兄)、昭哀后(高帝の姉)、衛思后(衛子夫)の園を元に戻しました元帝永光四年40年参照)
当時、元帝は病のために寝こんでおり、久しく治らなかったため、祖宗が譴怒(譴責)していると思って陵園を元に戻しました。但し郡国の廟は廃したままです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、済陽王劉康を山陽王に遷しました。劉康は元帝の子です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴呼韓邪単于は郅支単于が既に誅殺されたと聞き、一方では喜び一方では懼れました。喜んだのは郅支単于が滅んだからです。懼れたのは漢が強大になり、万一罪を得たら郅支単于のように滅ぼされることになるからです。
 
呼韓邪単于は漢朝廷に上書して朝見を願いました。
 
 
 
次回に続きます。