西漢時代239 元帝(二十二) 呼韓邪単于入朝 前33年(1)

今回は西漢元帝竟寧元年です。四回に分けます。
 
西漢元帝竟寧元年
戊子 前33
 
応劭(『漢書』の注者)によると、呼韓邪単于が辺塞を守ること(保塞)を願い、辺境が安寧を得たので、「竟寧」に改元しました。この場合、「竟」は「境」の意味になります。
しかし顔師古は元帝の詔に「長く兵革の事がなくなった(長無兵革之事)」とあることから、「竟」は「終極(最後まで続くこと。極まること)」に通じるとしています。その場合、「竟寧」は兵革がなくなり長く中外が安寧するという意味の「永永安寧」を指します。
 
[] 『漢書元帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、匈奴呼韓邪単于が来朝し、漢氏の婿となって親戚の関係を結ぶことを願いました。
元帝後宮の良家子(良家の女子)王嬙、字は昭君という者を単于に下賜することにしました。
単于歓喜して上書しました「(漢のために)上谷以西から敦煌に至る辺塞を守って(保塞)(後生まで)無窮に伝えることを願います。辺境の備えと塞の吏卒を廃して天子の人民を休めることを請います。」
 
王昭君の降嫁が決定し、元帝が詔を発しました「匈奴郅支単于が礼義に背叛したが、既にその辜(罪)に伏した。虖韓邪単于(呼韓邪単于は恩徳を忘れず、礼義を慕い(郷慕礼義)、再び朝賀の礼を修め、保塞して無窮に伝えることを願い、辺垂(辺境)に長く兵革の事(戦争)がなくなった。よって竟寧に改元し、単于に待詔掖庭(掖庭で皇帝の命を待っている宮女。ここでは皇帝の幸を得ていない者)王檣(王嬙)を下賜して閼氏とする。」
 
匈奴が辺境を守ることについては、有司(官員)に議論させました。議者は皆、呼韓邪単于の申し出に便があると考えます。
しかし郎中侯応は辺境の事に習熟しており、同意するべきではないと言いました。
元帝がその理由を問うと、侯応が答えました「周秦以来、匈奴は暴桀(凶暴)で、辺境を寇侵してきました。漢が興きてから、最も害を被っています。臣が聞くに、北辺の塞は遼東に至り、外には陰山があり、東西千余里にわたり、草木が茂盛し、禽獣が多く、元は冒頓単于がその中の地を利用して弓矢を作り、外に出て寇となり、その地は匈奴の)苑囿でした。しかし孝武の世に至ってから、出師征伐し、その地を斥奪(剥奪)して匈奴を)幕北(漠北)に退け、塞徼(要塞)を建て、亭隧(亭燧。烽火台)を起こし、外城を築き、屯戍を設けて守ったので、その後、辺境はこれらのおかげで少安を得ました。幕北の地は平らで草木が少なくて大沙が多いので、匈奴が来寇しても蔽隠(隠れること)する場所がほとんどありません。しかし塞から南は径(道)が山谷の深くにあり、往来が差難(困難)です。辺境の長老はこう言っています『匈奴が陰山を失ってから、そこを通る者で哭さない者はいない。』もし防備と塞の吏卒を廃したら、夷狄にこの大利を示すことになります。これが不可とする第一の理由です。
今は聖徳を広く被っており匈奴も聖徳を被っており)、その様子は天が匈奴を覆うのと同じです。匈奴は全活(安全に生活すること。命を保つこと)の恩を蒙ることができたので、稽首して臣従しに来ました。しかし夷狄の情とは、困窮したら身を低くして帰順し(困則卑順)、強くなったら驕慢になって逆らうもので(強則驕逆)、天性がそうなっています。以前、既に外城を廃し(宣帝地節二年68年参照)、亭隧を省いたので、(今の防備は)候望(監視。偵察)に足りて、烽火を通じさせるだけしかありません。古の者は安寧の時にも危険を忘れませんでした(安不忘危)。これ以上、(防備を)廃してはなりません。これが第二の理由です。
中国には礼義の教と刑罰の誅がありますが、それでも愚民が禁を犯しています。単于に至っては、その衆が必ず約(規則)を犯さないようにできるでしょうか匈奴に辺境を守らせてから、匈奴人が法を犯さないと保証できますか。原文「能必其衆不犯約哉」)。これが第三の理由です。
中国が関梁(陸路と水路の関)の建設を重視して諸侯を制してきたのは、臣下の覬欲(企み。陰謀)を絶つためです。塞徼を設けて屯戍を置くのは、匈奴のため匈奴を防ぐため)だけではありません。諸属国のためでもあります。(属国の)降民は本来、匈奴の人なので、旧を思って(昔を懐かしんで)逃亡することを恐れるのです匈奴に辺境を守らせたら、属国の匈奴人が境外に逃亡してしまうかもしれません)。これが四つ目の理由です。
最近、西羌が塞を守って(保塞)漢人と交通しましたが、(漢の)吏民が利を貪ってその畜産や妻子を侵盗したため、この怨恨が原因で、彼等は起ちあがって背畔(背反)しました。今、乗塞(塞壁に登ること。要塞の守備)を廃したら、嫚易分争(相手を虐げて互いに争うこと)の漸(浸透)を生むことになります匈奴が辺境を守るようになったら、漢の吏民が利を貪り、匈奴との関係を悪化させることになります。漢人が辺境を管理するべきです)。これが第五の理由です。
以前、従軍した者の多くが没して(失踪して)還っていません。その子孫は貧困しているので、一旦にして逃亡出境し、その親戚(家族)に従うかもしれません(境外から帰還していない者の家族が逃亡するかもしれません)。これが第六の理由です。
辺人の奴婢には苦を思って逃亡を欲している者が多数おり、『匈奴内は楽しいと聞くが、候望(監視)が厳しいからどうしようもない』と言っています。しかしそれでも時々逃亡して塞を出る者がいます。これが第七の理由です。
盗賊が桀黠(凶暴狡猾)で、群輩(集団)になって法を犯しています。もしそれを窘急(困窮)させたら(厳しく追跡したら)、逃走して北に出てしまい、制することができなくなります。これが第八の理由です。
塞を築いてから百余年が経ちますが(『資治通鑑』胡三省注によると、武帝時代に塞を築いて百余年になります)、全てが土垣で造られているわけではなく、あるいは山岩や石、木を利用しており、あるいは渓谷、水門(水峡)を少しずつ平らにして造られており、卒徒(士兵や刑徒)が築治(建設修築)した功費(苦労と費用)は久遠(漠大)で計ることができないほどです。議者はその終始(経緯)を深慮せず、壹切によって(目先の事だけを考えて。「壹切」は「目先の事」という意味です)繇戍(徭役屯戍)を省くことを欲していますが(欲以壹切省繇戍)、十年の外(後)、百歳(年)の内に突然、他変(異変)があった場合、その時は既に障塞が破壊されて亭隧が滅絶されているので、改めて発屯繕治しなければなりません(屯兵を発して修建しなければなりません)。しかし累歳の功(歳を重ねて成した成果)をすぐに復元するのは不可能です。これが第九の理由です。
もし戍卒を廃して候望を省いたら、単于は自分が保塞守御しているので、必ず漢に深く徳を与えていると思い、請求(恩賜の要求)が止まなくなります。そして、もし少しでもその意を失ったら(満足させられなかったら)、測ることができなくなり(不測の事態を招き)、夷狄の隙を開いて(夷狄に機会を与えて)中国の固(防備)を損なうことになります。これが第十の理由です。
これは安寧を長く保って(永持至安)百蛮を威制する長策(良策)ではありません。」
侯応の回答が上奏されると、元帝は詔を発して「辺塞を廃す事を議論する必要はない」と言いました。
 
元帝は車騎将軍許嘉を派遣して口頭で単于に言葉を伝えました「単于は上書して、北塞の吏士による屯戍を廃し、子孫世世、(漢の代りに)塞を守ること(保塞)を願った。単于は礼義を思慕しており(郷慕礼義)、それによって民のために計ること非常に厚い単于は礼義を重視しており、民の事もよく考えている)。これは長久の策であり、朕は甚だ嘉している。しかし、中国の四方には全て関梁障塞があり、塞外の備えとしているだけではなく、中国の姦邪が放縦し、外に出て寇害となることも防いでいる。だから(国境の)法度を明らかにして衆心を一つにしているのだ。朕は単于の意を敬諭(尊重して理解すること)し、疑っていない。単于(辺境の防備を)廃さないことを怪しむのではないかと思ったので、許嘉を派遣して単于を諭させることにした。」
単于は謝意を示して「愚かなので大計を知りませんでしたが、幸いにも天子が大臣を送って語(言葉)を告げました。身に余ることです(甚厚)」と言いました。
 
以前、左伊秩訾王が呼韓邪単于のために漢に帰順する計を立て(宣帝甘露元年53年)、そのおかげで匈奴は安定しました。
その後、ある者が左伊秩訾王を讒言しました。左伊秩訾王は自分の功績を誇っており(厚賞がないことに)いつも鞅鞅(不満な様子)としている、という内容です。
呼韓邪単于が左伊秩訾王を疑ったため、左伊秩訾王は誅殺されることを恐れ、自分の衆千余人を率いて漢に降りました。
漢は左伊秩訾王を関内侯に封じて食邑三百戸を与え、王の印綬を佩させます(『資治通鑑』胡三省注によると、匈奴で王を称していたため、漢に降って関内侯になってからも王の印綬を与えられました)
呼韓邪単于が漢に来朝してから、伊秩訾(左伊秩訾王)に会って謝罪し、こう言いました「王がわしのために計り、その恩はとても厚い(甚厚)匈奴を今に至るまで安寧にさせたのは王の力であり、どうしてその徳を忘れられるだろうか。しかしわしは王の意を失い(王を失望させ。原文「我失王意」)、王を去らせて再び顧留(顧みて留まること)させることがなかった。全てわしの過ちである。今から天子に報告するつもりだ。王が庭単于庭)に帰ることを請う。」
伊秩訾が言いました「単于は天命に頼って自ら漢に帰し、その結果、安寧を得られました。単于の神霊と天子の祐(助け)によるものです。私がどうして自分の功にできるでしょう(我安得力)。既に漢に降ったのに、また匈奴に帰ったら両心(二心)となります。単于のために漢に侍使(近くに仕えること)することを願います。命を聴くわけにはいきません。」
単于は強く請いましたが、伊秩訾を同意させることはできませんでした。
単于は帰国しました。
 
 
 
次回に続きます。