西漢時代242 元帝(二十五) 元帝の死 前33年(4)

今回で元帝の時代が終わります。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
元帝の病が重くなり、寝込んでしまいました。
傅昭儀と山陽王劉康は常に元帝の左右にいましたが、皇后(王政君)と太子(劉驁)はほとんど謁見の機会がありません。
元帝の病は徐々に悪化し、意識が恍惚として安定できなくなりました。しばしば尚書に景帝が膠東王(劉徹。後の武帝を擁立した故事について問います。
この時、太子の長舅(母の兄弟で最年長者)にあたる陽平侯王鳳が衛尉侍中を勤めていましたが、王鳳も皇后や太子も皆憂いるだけで、どうすればいいかわかりませんでした。
 
史丹は元帝の親密な臣としていつでも看病ができました。
史丹は元帝が独りで寝ている機会を待って臥内(寝室内)に直接入り、頓首して青蒲(青い蓆。恐らく皇帝の病床のすぐ近くに設けられた席です)の上に伏せ、涕泣してこう言いました「皇太子が適長(嫡長)として立ってから十余年が経ち、名号は百姓に繋がり(太子の名義は百姓に知られており)、天下で(太子に)帰心して臣子になろうとしない者はいません。しかし山陽王を見ると、平素から愛幸されているため、今は道路に噂が流れ、(人々は)国のために意(考え)を生んで太子に動揺の議があると思っています(山陽王が寵愛されているため、外では噂が流れており、人々に疑いが生まれて、陛下には太子の地位を動揺させる考えがあると思っています。原文「今者道路流言,為国生意,以為太子有動搖之議」)確かにそのようであるなら、公卿以下は必ず死をもって争い、(太子廃立の)詔を奉じません。臣は先に死を賜って群臣に示すことを願います。」
元帝は仁厚だったため、史丹の涕泣を見るに忍びず、またその言も切実だったため、大いに感寤(感動して覚醒すること。悟ること)しました。
元帝が長く嘆息してから言いました「わしは日に日に困劣している。太子と両王(山陽王劉康と信都王劉興)は幼少なので、意中で恋恋としており、どうして思念しないことがあるだろう。しかしそのような議(考え)はない。そもそも皇后は謹慎(慎み深くて慎重)で、先帝も太子を愛していた。わしがどうしてその意思に違うことができるだろう。駙馬都尉はどこでそのような語を聞いたのだ?」
史丹はすぐに後ろに下がって(青蒲から離れて)頓首し、「愚臣は妄聞しました。罪は死に値します」と言いました。
元帝は史丹の言を聞き入れてこう言いました「わしの病はますます悪化しており、恐らく還ることができない(元に戻らない)。善く太子を輔道(補導)せよ。わしの意に違えてはならない。」
史丹はむせび泣きながら立ち上がりました。
 
こうして太子は後継者の地位を安定させました。
右将軍光禄大夫王商(楽昌侯。王武の子。王武は宣帝の母の兄弟です)と中書令石顕も太子を擁護して大きな力になりました。
 
夏五月壬辰(二十四日)元帝が未央宮で死にました。
漢書』の注によると、元帝は二十七歳で即位し、在位年数は十六年、享年は四十三歳でした。
 
漢書元帝紀』の「賛」から元帝の評価です。
通常、『漢書』の「賛」は班固が書いていますが、『元帝紀』の注によると、『元帝紀』と『成帝紀』は班固の父班彪が書いたため、この「賛」も班彪が書いたことになります。下記にある「臣」は班彪を指します。
「臣の外祖(『漢書』注によると「金敞」。または「樊叔皮」)の兄弟が元帝の侍中を勤めたことがあり、臣にこう語った『元帝は材芸が多く、史書(公文書に用いられた字体。書道)を善くした。琴瑟を弾き、洞簫を吹き、自ら曲を作り、歌声を被せ、節を分け(分節度)、精妙を極めた(窮極幼眇)。若い頃から儒を好み、即位したら儒生を招いて用い、政治を委ねた。貢禹、薛広徳、韋玄成、匡衡が相次いで宰相になった。しかし上元帝は文義の牽制を受け儒学の教義に規制されて)、優游不断(優柔不断)だったため、孝宣の業を衰えさせてしまった。
それでも寛大で下の意見を聴き入れ(寬弘盡下)、恭倹に努め(出於恭倹)、号令は温雅(優雅)で、古の風烈(遺風。気風)があった。』」
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
元帝は自分と関係が遠い廟園を撤廃しましたが、頻繁に病に犯されたため、先祖の怒りを買ったと思って廟園を元に戻しました。
元帝死後、匡衡が上奏しました「以前、上(陛下。元帝の体が不平(安定しないこと)なため、既に廃した諸祠を復しました。しかし結局、福を蒙ることはありませんでした。考えるに、衛思后(衛子夫)、戾太子(劉據)、戾后(史良娣)の園は親(親情。親戚の情)がまだ尽きていませんが、孝恵、孝景の廟は親が尽きているので毀壊すべきです。太上皇、孝文孝昭太后(文帝の母薄氏と昭帝の母・鈎弋夫人)、昭霊后(高祖の母)、昭哀后(高祖の姉)、武哀王(高祖の兄)の祠に及んでは、全て廃して奉じないことを請います。」
上奏は許可されました(許可したのは皇太子劉驁だと思います)
 
[十一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月己未(二十二日)、皇太子劉驁が即位しました。これを成帝といいます。
成帝が高廟を拝謁しました。
 
太后(宣帝の皇后王氏。卬成王皇后)を尊重して太皇太后にし、皇后(王政君)を皇太后にしました。
元舅(母の兄弟で最年長者)で侍中衛尉陽平侯の王鳳を大司馬大将軍尚書事にしました。
資治通鑑』胡三省注は「王氏がここから権勢を得た」と書いています。
 
[十二] 『漢書帝紀』からです。
乙未(この年の六月に「乙未」はないはずです。恐らく誤りです)、有司(官員)が言いました「乗輿車(皇帝の車)、牛馬、禽獣は全て礼に合わないので、埋葬するべきではありません。」
成帝は同意しました。
 
漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月丙戌(十九日)、孝元皇帝を渭陵に埋葬しました。
資治通鑑』胡三省注によると、渭陵は長安北五十六里にあります。
 
[十三] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
天下に大赦しました。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
丞相衡が上書しました「陛下は至孝を持ち、(先帝を)哀傷思慕して心の中で絶つことなく、未だに游虞(遊楽)弋射(狩猟)の宴(娯楽。楽しみ)を設けず、誠に慎終追遠(「慎終」は物事の結果を慎重に考慮すること。ここでは孝道の始終を重視することです。「追遠」は先祖を忘れないことです)を重視して、無窮で止むことがありません。
陛下は聖性(聖人の性)を得ましたが、尚また聖心を加えることを願います。『詩(周頌閔予小子)』にはこうあります『病を患ったように憂愁する(焭焭在疚)。』これは成王が喪を終えても思慕してまだ意気を平静にできなかったことを言っています。これこそが文(文王武王)業を継承して大化を崇めた(発揚した)(根本の原因)です。臣はまた、臣の師がこう言うのを聞きました『妃匹の際(配偶、結婚の時)とは、生民(人を育てること)の始めであり、万福の源である。婚姻の礼が正しければ、その後、品物(万物)が成就して天命が全うする。』孔子は『詩』を論じる時、『関雎(恋愛の詩です)』を始めに置きました。これは(婚姻の礼を正しくして相応しい皇后を立てるのが)綱紀の首、王教の端(始め)だからです。上世以来、三代が興廃しましたが、ここから始めなかった者はいません。陛下が得失盛衰の效(成果。教訓)を詳しく観察し、それによって大基を定め、徳がある者を選び、声色を戒め、厳敬の者を近づけ、技能の者(技能があっても徳がない者)を遠ざけることを願います。
臣が聞くに、『六経』とは、聖人が天地の心を統御し、善悪の帰(分類)を著し(明確に分け)、吉凶の分(違い)を明らかにし、人道の正を通し(人の正道を通し。正道に導き)、その本性(善性)に逆らわせないようにするための著作だといいます。『論語』『孝経』に至っては、聖人の言行の要(重点)なので、その意を探求するべきです。
臣はまたこう聞いています。聖王自身の行動は、動いている時も止まっている時も進退においても(動静周旋)、天を奉じて親を継承し、朝廷に臨んで臣下を用いる時も(臨朝享臣)、全ての事に節分(節制、規則)があり(物有節文)、人倫を明らかにしました。恭敬慎重で恐懼するのは(欽翼祗栗)、天に仕える容(姿)です。温恭敬遜は親を奉じる礼です。自分の身を正して厳格かつ慎重なのは(正躬厳恪)、衆に臨む儀(姿)です。恩恵を与えて和やかに悦ぶのは(嘉恵和説)、下に対する顔です(饗下之顔)(聖人は)挙錯動作(挙動。行為)において万事がその儀儀礼。原則)を遵守していたから、形が仁義となり、動きが法則になったのです。
この正月初(元旦)(陛下は)路寝(大寝。正室を訪れて朝賀に臨み、酒宴を開いて万方を労います。『伝(恐らく『易』)』にはこうあります『君子は始めを慎重にする(君子慎始)。』陛下が動静の節(節操。規則)に留神(留意)することを願います。群下に盛徳休光(美光。「休」は「美」の意味です)を望ませることができて、それによって基楨(堅固な基礎)を立てれば、天下の幸甚となります。」
成帝は謙虚にこの言葉を受け入れました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代243 成帝(一) 成帝劉驁