西漢時代244 成帝(二) 石顕失脚 前32年(1)
今回は西漢成帝建始元年です。二回に分けます。
西漢成帝建始元年
己丑 前32年
春正月乙丑(初一日)、皇曾祖(皇帝の曾祖父)・悼考廟で火災がありました。
成帝が中書令・石顕を長信中太僕に遷しました。 秩は中二千石です。
『後漢書・百官志三』に「尚書令一人。千石」「武帝が宦者を用いて(尚書令を)中書謁者令に改めたが、成帝が士人を用いて元に戻した」とあり、注釈に「(尚書令の)秩を二千石に増やした。その後は銅印墨綬を佩した」と書かれています。二千石になったのがいつかはわかりません。
石顕は千石(または二千石)の中書令から中二千石の長信中太僕になりました(同じ「二千石」でも上から「中二千石」「二千石」「比二千石」という等級がありました)。
そこで丞相や御史が石顕の旧悪を條奏(一つ一つ上奏すること)しました。
石顕の党だった牢梁や陳順が免官されます。
石顕と交流して高い官位を得た者も全て罷免されました。
司隸校尉を勤める涿郡の人・王尊が丞相等を弾劾する上奏をしました「丞相・衡(匡衡)、御史大夫・譚(張譚)は石顕等が顓権擅勢(権勢を専断すること)、大作威福(賞罰を自由に行うこと)し、海内の患害になっていたことを知りながら、適時に白奏行罰することなく(報告して刑を用いることなく)、逆に阿諛曲従し、下に附いて上を欺き、邪を抱いて国を迷わせ、大臣輔政の義がありませんでした。皆、不道の罪に当たります。但しこれらは赦令の前の事です(前年七月に大赦しました)。ところが赦(大赦)の後、匡衡と張譚は石顕を挙奏(検挙・上奏)しながら、自身の不忠の罪は述べず、かえって先帝が傾覆(覆滅。亡国)の徒を任用したことを宣揚し、『百官がこれを畏れる様子は、主上(陛下)より甚だしかった(百官は皇帝よりも石顕を畏れていた)』と妄言しました。君を貶めて臣を尊ぶ(卑君尊臣)ようなことは発言するべきではなく、大臣の礼を失っています。」
しかし成帝は即位したばかりだったため、大臣を損なうことを願わず、逆に王尊を左遷して高陵令にしました。
但し群下の多くの者は王尊の意見を支持しました。
匡衡はこの後、沈黙して心中で不安を抱き、水旱がある度に引退して丞相の位を譲ることを請いました(乞骸骨讓位)。
それでも成帝は毎回詔書を送って慰撫し、引退を許可しませんでした。
元河間王・劉元の弟に当たる上郡庫令・劉良を河間王に立てました。
『資治通鑑』胡三省注によると、北辺の郡庫には官の兵器が所蔵されており、令が置かれていました。これを庫令といいます。
孛星(異星。彗星の一種)が営室に現れました。
上林苑の詔獄(皇帝が管理する獄)を廃しました。
『成帝紀』の注釈によると、上林詔獄は苑中の禽獣や宮館に関する案件を主管しました。水衡都尉に属します。
成帝が諸侯王、丞相、将軍、列侯、王太后、公主、王主(公主は皇帝の娘、王主は諸侯王の娘です)と二千石の官吏に黄金を下賜し、宗室の諸官吏で千石から二百石に至る者(宗室諸官吏千石以下至二百石)および宗室の子で属籍がある者(宗室に籍がある者。原文「宗室子有属籍者」)、三老、孝弟(悌)、力田、鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りがない老人)にはそれぞれ差をつけて銭帛を下賜し、吏民には五十戸ごとに牛酒を下賜しました。
成帝が詔を発しました「最近、火災が祖廟に降り、星孛(孛星)が東方に現れた。政治を始めたばかりなのに(即位したばかりなのに)災異があったが(始正而虧)、これより大きな咎があるだろうか(咎孰大焉)。『書(尚書・高宗肜日)』にはこうある『先古における道を得た王は災変に遭遇して行いを正し、徳を修めてこれに応じた(『漢書』顔師古注を参考にしました。原文「惟先假王正厥事」)。』群公は孜孜(勤勉な様子)として百官の見本となり(帥先百寮)、朕の不逮(およばないこと。不足していること)を輔佐せよ。寬大を崇め、和睦を長とし(提唱し)、全ての事に仁愛を及ぼし(原文「凡事恕己」。「恕己」は自分を赦すことですが、ここでは恕己の心を他の者にも広げるという意味です)、苛刻を行ってはならない。よって天下に大赦し、自新の機会を与える。」
こうして大赦が行われました。
次回に続きます。