西漢時代245 成帝(三) 外戚王氏 前32年(2)
今回は西漢成帝建始元年の続きです。
二月壬子、成帝が舅(母・王政君の兄弟)の諸吏・光禄大夫・関内侯・王崇を安成侯に封じました。
成帝は他の舅の王譚、王商、王立、王根、王逢時にも関内侯の爵位を与えました。
周武王の時代になって、舜の子孫・嬀満が陳に封じられました。これを胡公といいます。
十三世後に完が生まれました。完は字を敬仲といいます。
後に完は斉に奔りました。斉桓公が完を卿に任命して姓を田氏とします。
十一世後、田和が斉国を領有し、二世後に王を称しました(斉威王を指します)。
しかし斉王・建の代になって秦に滅ぼされました。
王賀は魏郡の群盗を逮捕することになりましたが、多くの者を見逃したため、奉使(皇帝の命を受けて使者になること。皇帝の命を遂行すること)に相応しくないという理由で罷免されました。
王賀は嘆いてこう言いました「千人を活かしたら子孫に封があると聞いている。私が活かしたのは万余人もいるが、後世に興隆できるのだろうか。」
王賀は王禁という子を生みました。字は稚君です。
王禁は若い頃に長安で法律を学び、廷尉史になりました。
王禁には大志があり、廉隅(品行)を修めず酒色を好み、多くの傍妻(妾)を娶りました。四女八男ができます。
長女は王君俠、次女は王政君(元后)、三女は王君力、四女は王君弟です。
長男は王鳳、字は孝卿、次男は王曼、字は元卿、三男は王譚、字は子元、四男は王崇、字は少子、五男は王商、字は子夏、六男は王立、字は子叔、七男は王根、字は稚卿、八男は王逢時、字は季卿です。
このうち王鳳と王崇は王政君と母が同じでした。母は適妻(嫡妻。正妻)で、魏郡・李氏の娘です。後に嫉妬によって王氏を去ることになり、河内の苟賓と再婚しました。
『漢書・元后伝』は「王崇は太后(王政君)の同母弟」と明記しています。また、王崇の異母兄に当たる王曼と王譚のうち、王曼に関して「太后は弟の王曼が早死したことを憐れんだ」という記述があります。よって、王曼以下七人は確実に王政君の弟になります。
しかし王鳳が王政君の兄か弟かは書かれていません。元帝末期に王鳳を成帝の「長舅」「元舅」と書いており、「長舅」「元舅」の本来の意味は「母(王政君)の兄弟の中で最年長者」ですが(最年長者が兄とは限りません。諸弟の中で最年長者かもしれません)、あるいは「母(王政君)の兄」という意味があるのかもしれません。
夏四月、黄霧が四塞しました(四方を満たしました)。
成帝は詔を発し、公卿大夫に広く意見を求めて隠すことなく進言するように命じました。
諫大夫・楊興、博士・駟勝等がそろって言いました「(霧は)陰が盛んになって陽を侵す気です。高祖の約(約束)においては、功臣でなければ侯になれませんでした。最近、太后の諸弟が全て無功なのに侯になりましたが、外戚に対してこのようにしたことは今までありませんでした。だから天がこのために異を示したのです。」
大将軍・王鳳は懼れて上書し、引退辞職を願い出ました(乞骸骨辞職)。
しかし成帝は優詔(優遇する詔)を発して王鳳の上書を却下しました。
御史中丞を勤める東海の人・薛宣が上書しました「陛下は至徳仁厚ですが、嘉気がまだ通らず(嘉気尚凝)、陰陽が不和なのは、恐らく吏の多くが苛政を行っているからです。部刺史(州刺史)のある者は條職(六條の職務。下述します)を循守せず、挙錯(行動)がそれぞれの意に則っており、郡県の事に多く干渉し、ひどい場合は私門(手づる。こね)を開き、讒佞を聞き、その結果、吏民の過失を求めて譴呵(譴責)が細微(些細な事)に及び、責義する時は力を量っていません(人に無理な要求をしています。原文「責義不量力」。「責義」は人に道理が通った要求をすることです)。郡県が互いに迫促(逼迫)し、内部でも互いに厳しくしているため、(害、影響が)衆庶(民衆)に流れ及んでいます。そのため、郷党では嘉賓の懽(客をもてなす歓び)が損なわれ、九族は親親の恩(親族と親しむ恩情)を忘れ、飲食周急の厚(飲食等における貧困救済の厚徳)がますます衰え、送往労来の礼(去る者を送り出して来た者を労う礼)が行われなくなっています。人道が通らなくなったら、陰陽が否隔(隔絶)されます。和気が通らないのはこれが原因でしょう(和気不通未必不由此也)。『詩(小雅‧伐木)』にはこうあります『民が徳を失ったら、乾餱(干飯)のようなものでも過ちをもたらす(民之失徳,乾餱以愆)。』鄙語(俗語)にはこうあります『苛政は(人々を)親しませず、煩苦は恩を損なわせる(苛政不親,煩苦傷恩)。』刺史が奏事する時は(刺史が報告に来た時は)、申敕(訓戒)を明らかにし、本朝の要務を昭然として(明白に)知らせるべきです。」
成帝は進言を嘉して採用しました。
第一條は、強宗豪右(豪族)の田宅が制度を越えていないか、強者が弱者を虐げ、衆(多数)によって寡(少数)に暴虐を加えていないかです。
第三條は、二千石が疑獄を憐れまず、すぐに殺人を行い、怒ったら刑を自由に使い、喜んだら賞を自由に与え、煩擾苛暴(雑乱・苛烈・暴虐)、剝戮黎元(民衆に対して剥奪殺戮を加えること)によって百姓の憂いとなり、山が崩れて石が裂け、妖祥・訛言(流言)が現れていないかです。
第四條は、二千石による官員の任免が不公平で、阿諛する者を愛し、賢人を隠して頑迷な者を寵用していないかです。
第五條は、二千石の子弟が栄勢に頼って監督から逃れていないかです。
秋、上林苑でほとんど御幸しない宮館二十五所を廃しました。
八月、二つの月が上下に現れ、晨(太陽が升る頃)、東方に見えました。
九月戊子、流星の光が地を照らし、長さが四五丈に及び、曲折して蛇の形になり、紫宮(紫微垣。星座。帝王の居室を象徴します)を貫きました。
『資治通鑑』胡三省注によると、匡衡の上奏が元になっています。
これまでは甘泉で皇天を、汾陰で后土を祭っていました。しかし甘泉は長安の北にあるので、天を祭るのに太陰の地を訪れることになり、汾陰は東にあるので、后土を祭るのに少陽の地を訪れることになります(北は太陰、南は正陽、西は少陰、東は少陽です)。
天地の祭祀を正陽と太陰に符合させるために、この後は南郊で天を祭り、北郊で地を祀ることにしました。
甘泉泰畤の紫壇(帝王が使う祭壇)の装飾や女楽、鸞路、騂駒、龍馬、石壇等も廃されました。
匡衡はこれらが古制に合わないとして撤廃を主張しました。
甘泉と汾陰の祠を廃した日、大風が吹き、甘泉畤(祠)の中の十囲(十人が抱きかかえるほどの太さ)以上もある大木を抜いて倒しました。
次回に続きます。