西漢時代246 成帝(四) 杜欽 前31年

今回は西漢成帝建始二年です。
 
西漢成帝建始二年
庚寅 前31
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、雍の五畤と陳宝祠を廃しました。全て匡衡の進言によります。
資治通鑑』胡三省注によると、秦が雍に四畤を造り、白帝、青帝、黄帝、赤帝を祀りました。漢高帝がこれに北畤を加えて黒帝を祀り、五畤としました。
高帝時代は有司(官員)が祭祀を行い、皇帝が自ら赴くことはありませんでしたが、文帝時代になって始めて雍を行幸し、皇帝が五畤を祀るようになりました。
陳宝は秦文公が陳倉北阪の上で祀ったのが始まりです。
匡衡はどちらも秦侯が始めた祭祀で、帝王による祭祀の礼に応じていないと考えて、撤廃するように主張しました。
 
辛巳(中華書局『白話資治通鑑』は「辛巳」を恐らく誤りとしています)、成帝が初めて長安南郊で郊祀しました。
成帝が詔を発しました「最近、泰畤と后土を南郊と北郊に遷し、朕自ら身を清めて(朕親飭躬)上帝を郊祀した。その結果、皇天が報応して神光が並んで現れた。三輔(近畿)の長は共張(各種の器物や設備を提供すること)繇役(徭役)の労が無い(共張・繇役の必要がない。原文「三輔長無共張繇役之労」)。奉郊の県(郊祀を奉じる県)である長安、長陵および中都官(京師諸官府)の耐罪(鬚ともみあげを剃る軽刑)の徒を赦す(釈放する)。また、天下の賦銭を一算あたり四十減らす。」
こうして奉郊の県と中都官の耐罪の徒が釈放されました。
また、天下の賦銭を減らし、一算から四十銭を少なくしました。本来、一算は百二十銭ですが、この後は八十銭になります。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
閏正月、渭城延陵亭を初陵(陵墓。名称が決められる前なので「初陵」といいます)にしました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
二月、成帝が詔を発し、三輔と内郡(辺境以外の郡)に賢良方正の士を各一人挙げさせました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
三月、北宮の井戸で水が溢れ出しました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
辛丑(十四日)、成帝が初めて北郊で后土を祭りました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
丙午(十九日)、許氏を皇后に立てました。
 
許皇后は車騎将軍許嘉の娘です。許嘉の父は許延寿で、許広漢の弟です。許広漢は恭哀許皇后(宣帝の皇后)の父に当たります。
元帝は自分の母(恭哀后)が皇后になってすぐに霍氏に殺害されたことを哀悼したため、許嘉の娘を選んで太子劉驁(成帝)に嫁がせました。許氏は劉驁に寵愛されて皇后に立てられました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
六厩と技巧の官を廃しました。どちらも水衡都尉に属す官です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
成帝は太子だった時から好色が知られていました。
即位に及ぶと、皇太后が詔によって良家の娘を選び、後宮を満たしました。
大将軍武庫令(『資治通鑑』胡三省注によると、大将軍の軍中の武庫令)杜欽が王鳳に言いました「礼においては、一人の天子は九女を娶り(一娶九女)、そうすることで後嗣を増やして祖先を尊重しました(『資治通鑑』胡三省注によると、一、三、五、七、九は陽数で、九は数の極みです。天子が九女を娶るのは夏(商)の制度です)。但し、たとえ娣姪(媵女。新婦に従って一緒に嫁ぐ女性。「娣」は新婦の妹。「姪」は新婦の兄弟の娘です)が欠けても補わず、そうすることで寿(帝王の長寿)を養って争い後宮における寵愛を求める争い)を塞いだのです。そのおかげで、后妃に貞淑の行があって胤嗣(後嗣)が賢聖の君となり、制度に威儀の節(厳格な節度)があって人君が寿考(長寿)の福を持ちました。(古い制度を)廃して則らなかったら、女徳(女色)を厭わなくなり(好色が過度になり)、女徳を厭わなくなったら、寿命が高年を究められなくなります。男子は五十になっても好色が衰えませんが、婦人は四十になったら以前の容貌が改められます(容貌改前)。以前とは異なる容貌をもって(色欲が)まだ衰えていない年(の帝王)に侍り、礼を用いて節制しなかったら、その原(根本。ここでは恐らく「婦人の元の美貌」を指します。または「帝王が元から持つ好色」を意味するのかもしれません)を救えず、後に異態(状況が変わること。ここでは寵愛されていた婦人が疎遠にされることを指します)を招くことになります。後に異態を招いたら、正后(正妻)が疑心を抱き、支庶に間適の心(嫡子の地位を窺う野心)が生まれます。これが、晋献公が讒言を採用した事を謗られ(批判され)、申生が無罪の辜(罪)を蒙ることになった原因です。
今、聖主は春秋に富んでおり(まだ若く)、まだ適嗣(嫡嗣)がいません。術に向いて学に入った時であり(学問に励んでいるところで)、后妃と親しくしているという議(議論。批難)もありません。将軍は輔政しているので、始初の隆(即位したばかりの勢い)に乗じて九女の制を建て、行義(道義)がある家を詳しく選び、淑女の質を求め、必ずしも声色・技能は必要とせず、これを万世の大法と為すべきです。少戒(若い頃に戒めるべきこと)は色にあります。『小卞(『資治通鑑』胡三省注によると『詩経小雅』の詩です。西周幽王が申后を廃して褒姒を王后に立て、太子宜咎を廃して伯服を立てた事を風刺した詩のようです)』の作(作品)は心を寒くさせます。将軍が常にこれを憂とすることを請います。」
王鳳が太后に報告しましたが、太后は「漢には『九女の制』の前例がない」と考えました。
王鳳も自分で法度を立てるわけにはいかないため、結局、今までの慣例を守っただけでした。
 
王鳳はかねてから杜欽を尊重していたため莫府(幕府)に置きました。国家の政謀は常に杜欽と共に計画します。杜欽はしばしば名士を推挙して欠陥や過失を修正させました。
当時の優れた政策は多くが杜欽によって生み出されました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
夏、大旱に襲われました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
東平王劉宇が罪を犯したため、樊と亢父の二県を削りました。
 
劉宇は宣帝の子です。『漢書宣元六王伝(巻八十)』によると、劉宇は元々素行が悪く、姦人と通じて法を犯していました。
しかし元帝は劉宇が近親(兄弟)だったため罪を問うことがなく、代わりに劉宇の傅や相を罰していました。
 
元帝が死んで埋葬された時、劉宇は三哭しただけで、すぐに酒を飲んで肉を食べ、妻妾を傍から離しませんでした。
劉宇の姫(宮人。妾)臑という者がおり、かつては寵愛されていましたが、後に遠ざけられたため、しばしば嘆息し、天に助けを求めていました(歎息呼天)
それを聞いた劉宇は臑を廃して家人子(平民。または官職名号がない宮人)に落とし、永巷後宮の掃除をさせて度々笞で打ちました。
臑は秘かに劉宇の過失を箇条書きにし、頻繁に家の者に告発させました。
劉宇はそれを察知して臑を絞殺します。
有司(官員)が成帝に上奏して劉宇の逮捕を求めたため、成帝は詔を発して樊と亢父の二県を削りました。
 
[十一] 『漢書帝紀』からです。
秋、太子の博望苑武帝が衛太子のために造りました。武帝征和二年91年参照)を廃して宗室の朝請の者(恐らく「奉朝請」。春と秋に朝見する資格を持つ者)に下賜しました。
また、乗輿厩馬(皇帝の車や厩舎の馬)を減らしました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
匈奴呼韓邪単于は左伊秩訾王の兄の娘二人を寵愛していました。
左伊秩訾王は呼韓邪単于に漢に帰順することを進めた匈奴重臣ですが、後に讒言に遭ったため、誅殺を恐れて漢に投降しました元帝竟寧元年33年参照)
 
左伊秩訾王の長女は顓渠閼氏となり、二子を生みました。長子を且莫車、次子を囊知牙斯といいます。
少女(妹)は大閼氏となり、四子を生みました。長子を雕陶莫皋、次子を且麋胥といい、二人とも且莫車より年上です。下の二人を咸と楽といい、どちらも囊知牙斯より年下です。
年齢順に並べると、彫陶莫皋(大閼氏)、且麋胥(大閼氏)、且莫車(顓渠閼氏)、嚢知牙斯(顓渠閼氏)、咸(大閼氏)、楽(大閼氏)となります。
他の閼氏の子も十余人いました。
 
顓渠閼氏は位が貴く、その子且莫車は単于に愛されていました。
そのため、呼韓邪単于は病を患って死に臨んだ時、且莫車を後継者に立てようとしました。
しかし顓渠閼氏がこう言いました「匈奴の乱は十余年に及び、髪のように細く生き延びていましたが(不絶如髪)、漢の力を蒙ったおかげで再び安定を取り戻しました。今、平定してまだ間がなく、人民は戦闘を畏れています(創艾戦闘)。且莫車は年少なので百姓が帰心しておらず、再び国を危うくする恐れがあります。私と大閼氏は同じ家の出で、子を共にしています(お互いの子を自分の子とみなしています。原文「一家共子」)。雕陶莫皋を立てるべきです。」
大閼氏が言いました「且莫車はまだ年少ですが、大臣が協力して国事を主持できます。今、貴(嫡子)を棄てて賎庶子を立てたら、後世に必ず乱を招きます。」
結局、単于は顓渠閼氏の計に従って雕陶莫皋を後継者に選び、将来、弟の且莫車に国を伝えるように約束させました。
 
やがて呼韓邪単于が死に、雕陶莫皋が立ちました。これを復株累若鞮単于といいます。
資治通鑑』胡三省注によると、「若鞮」は匈奴の言葉で「孝」を意味します。呼韓邪単于が漢に降ってから漢の文化を慕うようになり、漢帝の諡号に「孝」の字が使われているのを見て、単于も「若鞮」をつけることにしました。復株累単于以後は皆、「若鞮」を称しています。
 
復株累若鞮単于は且麋胥を左賢王に、且莫車を左谷蠡王に、囊知牙斯を右賢王にしました。
復株累単于匈奴の風習に則って呼韓邪単于に嫁いだ王昭君を妻にしました。王昭君は二女を生みます。長女(云は名です)は須卜居次に、小女(名は不明です)は当于居次になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、須卜氏は匈奴の貴族で、当于は匈奴の大族です。居次は匈奴単于の娘、または王侯の妻の称号です。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代247 成帝(五) 匡衡失脚 前30年