西漢時代247 成帝(五) 匡衡失脚 前30年

今回は西漢成帝建始三年です。
 
西漢成帝建始三年
辛卯 前30
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春三月、天下の徒(囚人)を赦しました大赦しました)
孝弟()力田に爵二級を下賜しました。
租賦を納める能力がなく救済を受けている者からは、租賦を徴収しないように命じました(または「救済のために貸し与えた物資は回収しないように命じました。」原文「諸逋租賦所振貸勿收」)
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋、関内で四十余日に渡って大雨が降り、大水(洪水)が起きました。
 
七月、虒上(地名)の小女陳持弓(陳が氏、持弓が名)が、大水が来ると聞いて横城門(『漢書帝紀』の注によると、長安城北面の西側第一門です)に走って入り、尚方(官署)の掖門(小門)に闌入(符籍が無いのに勝手に入ること)して未央宮鉤盾(官署)に至りました。
京師の吏民が驚き恐れて大水が来ると噂し合います。百姓が奔走して互いに蹂躪し、老弱の者が号呼して、長安中が大乱に陥りました。
 
成帝が自ら前殿に臨み、公卿を招いて討議しました。
大将軍王鳳が言いました「太后と上(陛下)および後宮(宮女)は船に乗ることができます。吏民は水を避けるために長安城に登らせましょう。」
群臣は皆、王鳳の意見に賛成しました。
しかし左将軍王商(楽昌侯。王武の子。王武は宣帝の母の兄弟です。王鳳の弟にも王商がいますが別人です)だけはこう言いました「古から今まで、無道の国でも水が城郭を冒した(覆った)ことはありません。今は政治が和平(安定)し、世に兵革(戦争)がなく、上下が互いに安んじています。何が原因で大水が一日にして突然至る必要があるのでしょうか。これは訛言(謡言。虚言)に違いありません。城壁に登るように命じて更に百姓を驚懼させるべきではありません。」
成帝はこの意見に賛成して王鳳の建議を中止しました。
 
暫くして長安中が安定し始めました
調査の結果、長安が洪水で没するというのは訛言(虚言)だったと分かりました。
成帝は王商が考えを守ったことを褒めてしばしばその意見を称賛しました。
王鳳は大いに恥じ入って自分の失言を恨みました。この件が原因で王鳳は王商と対立します。
 
資治通鑑』にはありませんが、『漢書・成帝紀』には「吏民が驚いて城に登った」と書かれているので、一部の吏民は城壁に登ったようです。
九月、成帝が詔を発しました「最近、郡国が水災を被り、人民が流殺され、多い場所は千数に至った。京師でも大水が至るという根拠のない訛言のため、吏民が驚恐し、奔走して城壁に登った。これは恐らく苛暴深刻(苛酷惨暴で法が厳しいこと)の吏がまだ止まず(未息)、元元(民衆)で職(生業。本業)を失って怨んでいる者が多い(冤失職者衆)からであろう(だから訛言が生まれたのであろう)。よって諫大夫(人名)等を派遣して天下を循行させる。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
成帝が王鳳に政事の全権を委任しようと欲しました。
八月、車騎将軍許嘉を策免(策書によって罷免すること)し、特進侯として朝位に就かせました。
 
許嘉は平恩侯で、「特進」という特権が加えられました。『資治通鑑』胡三省注によると、漢制においては、列侯が長安で朝請(春と秋の朝見)に参加する時の位は三公の下とされました。特進侯も三公の下ですが、他の列侯よりは上になります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
御史大夫張譚が選挙不実の罪(人材の推挙で不正を犯した罪)に坐して罷免されました。
冬十月、光禄大夫尹忠が御史大夫になりました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月戊申朔、日食がありました。
その夜、未央宮殿中で地震がありました。
 
成帝が詔を発しました「天が衆民を生んだが互いに治めることができないので、衆民のために君を立ててこれを統理させたと聞いている。君道が得られれば草木昆蟲(昆虫)が全て居場所を得るが、人君が不徳なら謫(譴責。変異)が天地に現れ、災異が頻発して不治(正しく治められていないこと)を告げる。朕が歩んだ日は少なく(渉道日寡)、挙動が適切ではないため(挙錯不中)、戊申に日蝕地震があった。朕は甚だ懼れている。公卿はそれぞれ朕の過失を考え、明白に述べよ。面前では従って退いてから陰で誹謗するようなことがあってはならない(原文「女無面従,退有後言」。『尚書益稷』の言葉です)。丞相、御史と将軍、列侯、中二千石および内郡国は賢良方正で直言極諫できる士を挙げて公車を訪ねさせよ。朕が親覧する。」
 
杜欽と太常丞(『資治通鑑』胡三省注によると、太常丞は比千石で、行礼や祭祀の小事を管理しました。または廟中で非法の者を検挙しました)谷永が答えて「(日食と地震が起きたのは)後宮の女寵(皇帝が寵愛する女)が盛ん過ぎて(多すぎて)、互いに嫉妬して上(陛下)を独占することを望んでいるためであり、このままでは継嗣を害す咎(後継者に恵まれない禍)を招くことになります」と言いました。
資治通鑑』胡三省注は「許皇后と班倢伃を指す」と解説しています。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
郡で山崩れがありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
丁丑(三十日)、丞相匡衡が封邑の土地を四百頃多く取り、監臨(監察。監督)しながら主守(主管)した地の財を盗み取り、十金以上に値したため、罪を問われて罷免され、庶人になりました。
 
以下、『漢書匡張孔馬伝(巻八十一)』からです。
匡衡は丞相になった時、僮県の楽安郷に封じられました。『漢書』の注によると臨淮郡に属します。
楽安郷の本来の田地は隄封(境域。領域)三千百頃で、南は閩佰を境界にしていました。
しかし元帝初元元年(前48年)に郡図を作った時、誤って「閩佰」を「平陵佰」としてしまいました。十余年が経過してから匡衡が臨淮郡(楽安郷)に封じられましたが(匡衡が楽安侯になったのは元帝建昭三年36年の事です)、平陵佰を境界としたため、本来の領地より四百頃広くなりました。
成帝建始元年(前32年)、郡が国界を定めて計簿(戸口、賦税等の帳簿)を提出し、改めて地図を造って丞相府に報告しました。
匡衡が親任している官吏・趙殷に言いました「主簿陸賜は以前、奏曹(官名)におり、国界の事に精通しているので(習事曉知国界)、集曹掾(官名)に配属させる(領域の事は陸賜に処理させる)。」
翌年、封地の統計をした時、匡衡が趙殷に国界について問いました「曹(担当の官署。陸賜を指します)はどうするつもりだ?」
趙殷が言いました「陸賜は計(統計。計簿)を挙げて(報告して)、郡に実情と符合させるべき(改めて平陵佰を境界に定めさせるべき)だと考えています。しかし恐らく郡は実情に従おうとしません。そうなったら、家丞(官名。家事を主宰する官)を使って上書させることができます。」
匡衡が言いました「得るべきかどうかを考慮するだけだ。なぜ上書の必要があるのだ(自分がその土地を得るべきではないのなら、上書の必要はない)。」
しかし匡衡は曹から郡に報告するようには指示せず、曹の自由にさせました。
 
後に陸賜と属(部下の明。姓は不明です)が計簿を郡に挙げて言いました「故図(元の地図。誤った地図)によるなら、楽安郷南は平陵佰を境界としています。新しい地図が)故図を満足させず、閩佰を境界にするのはどうしてですか?」
郡はすぐに四百頃を楽安国に戻しました。
そこで匡衡は従史を僮県に派遣し、返還された土地の田租に当たる穀千余石を受け取って匡衡の家に入れました。
 
ところが、司隷校尉駿と少府忠が廷尉の職務を代行し(行廷尉事)、匡衡を弾劾しました「匡衡は監臨しながら主守した地の財物を盗み、十金以上に値しました(「罰金十金以上に値する罪を犯しました。」または「盗んだ財物が十金以上に値しました。」原文「衡監臨盗所主守直十金以上」)。『春秋』の義によるなら、諸侯は地を専らにできず(壟断できず。自由にできず)、そうすることで、(諸侯に)統一して法制を遵守させたのです(壹統尊法制也)。匡衡は三公の位にいて国政を輔佐し、計簿を領して(掌握して)郡の実情を知り、国界を正す立場にいながら、計簿が既に定まったのに(境界が決められたのに)法制に背き、地を専らにして土を盗むことで(土地を盗んで壟断することで)自分の利益を増やしました。陸賜と明に及んでは、匡衡の意に阿承し(阿諛追従し)、郡計を曲げて報告し、妄りに県の境界を減らし、下に附いて上を欺き、勝手に土地を大臣に属させて増やしました。皆、不道の罪に当たります。」
成帝は上奏文を裁可しましたが、匡衡の罪は裁かず、丞相を免じて庶人に落としました。
匡衡は自分の家で生涯を終えます。
 
 
 
次回に続きます。