西漢時代248 成帝(六) 洪水 前29年(1)

今回は西漢成帝建始四年です。二回に分けます。
 
西漢成帝建始四年
壬辰 前29
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月癸卯(二十六日)、隕石が亳(または「槀」)に四つ落ち、肥累に二つ落ちました。
槀も肥累も県名で真定王国に属します武帝元鼎三年114年参照)
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
中書の宦官を廃止し、初めて尚書の定員を五人に定めました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、漢初は中人(宦官)に中謁者令がおり、武帝時代、中謁者令を中書謁者令に改めて僕射を置きました。
宣帝時代、中書官弘恭を中書令に、石顕を中書僕射にしました。
元帝が即位して数年で弘恭が死に、石顕が中書令になりました。石顕は政権を握って専横します。
そこで成帝に至って中書令の官を廃しました。
 
尚書の四人を四曹といいます。このうち、常侍尚書(常侍曹尚書は丞相、御史の事を主管し、二千石尚書(二千石曹尚書は刺史、二千石(郡守や国相)の事を主管し、戸曹尚書は庶人の上書を主管し、主客尚書(主客曹尚書は外国の事を主管しました。
成帝はこれに三公曹(三公曹尚書。三公尚書を加えて五曹にしました。三公曹は断獄(訴訟裁判)を主管します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
三月甲申(初八日)、左将軍楽昌侯王商を丞相に任命しました。匡衡が廃されたためです。
 
この王商は王武の子で、王武は宣帝の母の兄弟です。『漢書外戚恩沢表』によると、王武の諡号は共侯、王商の諡号は戾侯です。
大将軍王鳳の弟にも王商という者がいますが別人です。
王鳳は前年の洪水の一件が原因で楽昌侯王商を嫌っていました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏、成帝が以前推挙させた直言の士を全て招き、白虎殿に集めて意見を聞きました。
資治通鑑』胡三省注によると、白虎殿は未央宮にあります。
 
当時、成帝は王鳳に政事を委ねていました。そのため、議者の多くは天変等の責任を政治を行っている王鳳に帰しました。
しかし谷永は王鳳が重用されているのを見て、心中で王鳳に自分を託そうと欲し、こう言いました「今は四夷が賓服服従し、皆、臣妾(臣民。臣属)となりました。北には葷粥匈奴の古名、別名)、冒頓(高帝呂公時代の匈奴単于の患がなく、南には趙佗、呂嘉(どちらも南越の主)の難がなく、三垂(三辺)が晏然(安寧)とし、兵革(戦争)の警(警報)がありません。諸侯の大きい者でも数県を食すだけで(数県の収入を得るだけで)、漢吏(朝廷の官員)がその権柄を制し、(諸侯王が)何も為せないようにしているので、呉、楚、燕、梁の勢もありません(呉、楚、梁は景帝時代、燕は昭帝時代に謀反しました)。百官が盤互(結び合うこと)し、親疏(皇帝と血縁関係が近い者と遠い者)が交錯し、骨肉の大臣には申伯の忠があり(『資治通鑑』胡三省注によると、申伯は西周を中興した宣王の舅(母の兄弟)です。暗に王鳳を指しています)、洞洞属属(「洞洞」は敬肅の様子、「属属」は専心して慎重な様子です)、小心畏忌(「小心」も「畏忌」も慎重の意味です)としているので、重合(重合侯馬通。武帝時代)、安陽(安陽侯上官桀。昭帝時代)、博陸(博陸侯霍禹。宣帝時代)の乱もありません。
この三者(辺境、諸侯、群臣)に毛髪の辜(わずかな罪)もないのに、陛下が昭昭の白過(明らかな過ち)を留め(または「明らかな過ちを放置し」。原文「陛下舍昭昭之白過」)、天地の明戒(明らかな警告)を疎かにし、暗昧の瞽説(愚昧な妄言)を聴いて、咎を無辜(無罪の者)に帰し、政事において異説を信じ、天心を大きく失うのではないかと心中で恐れています。これは不可の大なるものです(あってはならないことです)
陛下が誠に愚臣の言を深察するなら、湛溺の意(耽溺した愛情)に対抗し、偏駁の愛(偏った愛情)を解き、乾剛(剛直)の威を奮い、天覆の施を均等に与え、全ての列妾(妃嬪達)が代わる代わる進めるようにし(皇帝の幸を得られるようにし)、宜子の婦人(子を生む能力がある婦人)後宮に)納れて増やし、好醜(美醜)を選ばず、嘗字(「嘗」は「既に」「かつて」という意味です。「嘗字(嘗という字)」は「かつて嫁いだ者」「再婚者」を指します。『資治通鑑』胡三省注によると、王鳳は既婚者の張美人を後宮に入れました。成帝陽朔元年24年に再述します)を避けず、年歯(年齢)を論じないべきです。法(この方法。基準)に則って判断するなら、陛下が微賎の間で継嗣(継承者)を得ても、逆に福となります(微賎の女性との間に子ができたとしても嫌う必要はなく、福と考えるべきです)。目的は継嗣を得ることだけです。母に賎はありません(母の貴賎は関係ありません。原文「母非有賎也」)後宮の女史や使令(『資治通鑑』胡三省注によると、「女史」は女奴の中で書に精通した者。「使令」は後宮で働く女で、爵秩がなく身分が低い者です)の中に直意の者(皇帝の意に沿う者)がいたら、微賎の間でも広く求め、そうすることで天が開いた右(佑。助け)に遇い、皇太后の憂愠(憂鬱憤懣)を慰釋(解いて慰めること)し、上帝の譴怒を解謝(解いて赦しを得ること)します。そうすれば、継嗣が蕃滋(繁殖。繁栄)し、災異も止むことでしょう。」
杜欽も谷永の意に倣いました。
成帝は二人の上書を後宮に示し、谷永を光禄大夫に抜擢しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月に雪が降りました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
五月、中謁者丞陳臨が司隷校尉轅豊を殿中で殺しました。
 
漢書』の注によると、轅豊は長安令となり、その政治に能名(能力と名声)があったため、司隷校尉に抜擢されました。
陳臨は以前から轅豊に怨みがあったため、轅豊が尊顕を得たのを見て、自分の害になることを畏れました。そこで轅豊が出発する前に人を送って刺殺しました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋、桃と李に実がなりました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
大雨が十余日続き、大水(洪水)が起きて東郡の金隄(堤防の名)黄河が決壊しました。
 
これ以前に清河都尉馮逡が上奏しました「郡(清河郡)は河の下流に当たり、土壤が軽脆で崩れやすいものの、最近、大害がほとんどないのは、屯氏河が通じて両川に分流していたからです(屯氏河ができて黄河の流れが二分されたからです)。しかし最近、屯氏河が塞がり元帝永光五年39年)、霊鳴犢口もますます不利になり(ますます流れが悪くなり)、一川だけが数河の任を兼受しているので、たとえ隄防の高さを増しても、最後は排出できなくなり、もし霖雨(長雨)が降って旬日(十日)も止まなかったら、必ず盈溢することになります(満たされて溢れ出します)。九河の故迹(大禹が黄河の水害を解消するために造ったとされる九筋の川)は、今は既に滅んでいるため明らかにするのが困難ですが、屯氏河は最近絶たれたばかりでまだ久しくないので、その場所は容易に通せます。また、その口黄河と屯氏河が分かれる場所)は高い所にあるので、水の力を分けて殺す際、道里に便宜があり(工程が簡単で)、再び(河を)通して大河が暴水を排出するのを助け、非常(非常事態)に備えることができます。あらかじめ脩治(修築)しなければ、北に決壊したら四、五郡の病(害)となり、南に決壊したら十余郡の病となり、そうなった後に憂いてもすでに手遅れです(晚矣)。」
この上奏文は丞相・王商と御史下の記述を見ると「御史大夫尹忠」のようですが、尹忠が御史大夫になるのは前年のことで、『漢書・公卿百官表』によると、当時の御史大夫は張譚です。下部コメント欄を参照ください)に下されました。
丞相と御史は成帝の許可を得て博士許商に視察させました。
許商の報告を受けて、丞相・王商と御史はこう言いました「今は用度(国家の費用)が不足しています。とりあえずは(河を)通す必要はありません。」
 
しかしその三年後(本年)黄河が館陶と東郡金隄で決壊し、洪水は兗州(東郡が属します)豫州から平原、千乗、済南(この三郡は青州に属します)に及びました。四郡(東郡と平原、千乗、済南の三郡を指すと思われます。豫州がどこを指すのかは分かりません)三十二県に水が流れ、十五万余頃の地が水没し、その深さは三丈もありました。破壊された官亭や室廬(家屋)はおよそ四万個所に上ります。
 
冬十一月(下述)御史大夫尹忠が方略に対して疏闊(粗略。不充分。周到ではないこと)だったため、成帝が尹忠の職務に対して真剣ではない態度を厳しく譴責しました(上切責其不憂職)
尹忠は自殺しました。
 
尚、尹忠が自殺した月を『漢書帝紀』は「冬十月」、荀悦の『前漢孝成皇帝紀(巻第二十四)』と『資治通鑑』は「冬十一月」としています。後者が「十一月」としているのは、恐らく次の御史大夫に張忠が任命されるのが十一月壬戌(二十日)だからです(下述します)
漢書百官公卿表下』を見ると、尹忠が死んだ時間は書かれていませんが、張忠が御史大夫になったのは十一月壬戌と明記されています。
 
以下、『資治通鑑』からです。
成帝は大司農非調(『資治通鑑』胡三省注によると、非が氏です。秦の非子の子孫です)を派遣して均銭穀(恐らく物価を調整するために貯蓄していた金銭や穀物を調達し、黄河が決壊して洪水があった郡に運びました。また、謁者二人に河南以東の船五百(艘)を動員させ、民を遷して水害から避けさせました。丘陵に移住した民は九万七千余人に上りました。
 
壬戌(二十日)、少府張忠が御史大夫になりました。
 
 
 
次回に続きます。