西漢時代250 成帝(八) 許皇后 前28年

今回は西漢成帝河平元年です。
 
西漢成帝河平元年
癸巳 前28
 
資治通鑑』胡三省注によると、決壊した黄河の堤防を塞いで河を平定したため改元しました(下述します)
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春、杜欽が犍為の人・王延世を王鳳に推挙し、決壊した黄河を塞がせました(前年参照)
王鳳は王延世を河隄使者に任命します。
 
王延世は巨大な竹落(竹籠。原文は「竹落長四丈,大九囲」です。「大九囲」は周囲の長さで、九人が抱きかかえるほどの大きさです。「長四丈」はよくわかりません。深さだとしたら「四丈」は深すぎます。直径かもしれません)に小石を盛り、二艘の船に挟んで運ばせ、決壊した場所に沈めました。
三十六日で河隄(堤防)が完成します。
 
三月、成帝が詔を発しました「河が東郡で決壊して二州(『漢書』顔師古注は「兗州と豫州の地」としていますが、「兗州と青州」ではないかと思われます)に流漂(氾濫)したが、校尉王延世が隄塞(堤防を築いて塞ぐこと)して平定した(隄塞輒平)。よって改元して河平とする。天下の吏民にそれぞれ差をつけて爵を下賜する。」
 
成帝は王延世を光禄大夫に任命して秩を中二千石にしました。また、関内侯の爵位と黄金百斤を下賜しました。
漢書百官公卿表上』によると、光禄大夫の秩は本来「比二千石」です。「中二千石」は「比二千石」の上になります。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月己亥晦、日食がありました。
 
成帝が詔を発しました「朕は宗廟を保つことになり、戦戦栗栗(戦戦兢兢)としているが、まだ奉称(先帝の業績を受け継いで全うすること)できていない。『伝(『礼記昏義』に見られます)』にはこうある『男の教えが修められなかったら陽事が損なわれ、それが原因で日が蝕まれる(男教不修,陽事不得,則日為之蝕)。』天がその異(変異)を明らかにした。辜(罪)は朕の躬(身)にある。公卿大夫は勉めて心を尽くし、(朕の)不逮(およばないこと。不足)を輔佐せよ。百寮(百官)はそれぞれその職を修め、仁人を惇任(重任)し、残賊(残忍暴虐)を退けて遠ざけよ。朕の過失を述べ、隠してはならない。」
 
天下に大赦しました。
 
光禄大夫劉向が成帝の詔に応えて進言しました。
劉向は元の名を劉更生といいます。元帝時代に失脚しましたが、『漢書楚元王伝(巻三十六)』によると、成帝が即位して石顕等が罪に伏してから、成帝が再び劉更生を用いました。劉更生は劉向に改名しました。
 
劉向は成帝にこう言いました「四月と五月が交錯し(四月交於五月)、月は孝恵と同じで、日は孝昭と同じです。この占(兆)は恐らく継嗣(後継者)を害すことを示しています。」
日食は本来、朔(月の初日)に現れるものですが、この時は四月晦(四月の末日)に現れました。これが四月と五月が交錯しているという意味で、この日食は五月のものと考えられました。
恵帝七年(前188年)の夏五月丁卯(二十九日)皆既日食があり、今回の日食と月(五月)が一致します。
また、昭帝元鳳元年(前80年)の秋七月己亥晦にも皆既日食がありました。今回の日食と日(己亥晦)が一致します。
恵帝も昭帝も後嗣がいなかったため、劉向は成帝にも後嗣ができない兆しではないかと考えました。
 
当時は許皇后が寵愛を独占しており、後宮の者が成帝に進められる機会はほとんどありませんでした。
皇宮内外の者が成帝に継嗣ができないことを憂いたため、杜欽や谷永および劉向の回答は全て後宮の事に言及しました。
 
そこで成帝は椒房(椒房殿。皇后の宮殿です)と掖庭後宮の費用を減少させ、諸官署から徴発したり製造される服御(衣服や用具)や輿駕(駕籠や車)および外家(皇后の家族)や群臣妾(諸妃嬪)に与える賞賜は全て竟寧年間(竟寧は元帝の年号です)以前の例に倣うことにしました。
 
ところが許皇后が上書して弁解し、こう言いました「時世によって制度は異なるものです(時世異制)。長短を互いに補い合い、ただ漢制から出なければいいだけのはずです。纖微の間(細かい所)まで同じにする必要はありません。例えば竟寧以前と黄龍(宣帝の年号です)以前は、互いに倣っていましたか(竟寧以前と黄龍以前は同じでしたか。原文「豈相放哉」)。家吏(皇后の官属)(この道理を)理解していないので、今回、一度このような詔を受けたら、妾(私)が手を振ることもできなくさせるでしょう。例えば妾がある屏風を作ってある場所に張ろうとしたら、(官属は)『故事(前例)にないことです』と言い、得られない物があっても(皇后が何かを求めても官属はそれを準備しようとせず)、必ず詔書を利用して妾を制限することになります。これは誠に実行するべきではありません。陛下の省察(明察)を請います。
故事(前例)では、特牛(一頭の牡牛)で大父母(祖父母)を祀るものですが、戴侯(平恩戴侯許広漢)、敬侯(楽成敬侯許延寿)は皆、恩を蒙って太牢(牛豚がそろっている祭品)で祀ることができました。ところが今回、故事を遵守しなければならなくなったので(戴侯と敬侯の祭品が減らされることになったので)、陛下の哀憐を請うだけです。今、吏が詔を受けて記(文書)を宣読したばかりですが、すぐにあらかじめ警告をして、今後は二度と後宮の財物を)私府(私財)のように取ることができないと、后(皇后。私)に知らしめました。萌牙(事の始め)から妾(私)を約制(制約)しようとしたら、恐らく人理を失うことになります。陛下の深察を願います。」
 
成帝は谷永や劉向による災異の咎験(原因。責任)が全て後宮にあるという意見を採用し、皇后に伝えて言いました「吏が法にこだわっているのに、どうして過(罪)とするに足りるのだ(官吏が法を行うのは当然であり、それを罪とみなすことはできない)。矯枉の者(曲がったことを矯正する者)が過直(実直過ぎること)なのは、古今とも同じだ。そもそも、財幣を省き、特牛で祭祀を行うのは、皇后にとって徳美を扶助して華寵(栄貴な地位)と為すことになる。咎根(禍根)を除かなかったら災変が代わる代わる襲い、祖宗が血食(祭祀を受けること)できなくなるのに、戴侯が何だというのだ。『伝論語』にこうあるではないか『自分を制約しているのに過失を犯す者は少ない(以約失之者鮮)。』皇后は奢(奢侈)を追求したいのか?もし朕も孝武皇帝(の奢侈)に倣わなければならないとしたら、甘泉、建章を復興することになる。しかし孝文皇帝こそが朕の師である。皇太后(王政君)は皇后の成法(制度)だ。たとえ太后がかつて責任を果たさなかったとしても(以前は節制していなかったとしても。原文「在彼時不如職」)、今は(皇太后の)親厚(親しみ。厚遇)を受けているのだから、どうして(皇太后の制度を)越えられるのだ。皇后は美徳を保つことを心に刻み(刻心秉徳)、謙約を右(上)とするべきである。そうすることで列妾の見本となり、後宮に規則を)遵守させよ。」
 
[] 『漢書帝紀』からです。
六月、典属国(異民族を管理する官)を廃して大鴻臚と合併しました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
給事中で平陵の人平当が上書しました「太上皇は漢の始祖です。その寝廟園(廟園。前殿を廟、後殿を寝といいます)を廃すのは、是ではありません(正しくありません)。」
太上皇は高帝の父です。元帝竟寧元年(前33年)に祀廟が廃されました。
成帝は後継者ができなかったため、平当の進言を採用しました。
 
秋九月、太上皇の寝廟園を元に戻しました。
 
漢書韋賢伝(巻七十三)』によると、かつて高后(呂公)の時代に、臣下が妄りに先帝の宗廟や寝園の官について非議(議論。否定)することを心配したため、著令(成文法)を定めて、敢えて勝手に議論する者は棄市に処すことにしました。
しかし元帝が制度を改めてこの令を廃止しました元帝時代は宗廟に関する議論がされました)
成帝時代になると、継嗣(後継者)がいなかったため、河平元年(本年)太上皇の寝廟園を元に戻して代々祭祀を奉じることにしました。昭霊后(高帝の母)、武哀王(高帝の兄)、昭哀后(高帝の姉)も以前のように太上寝廟で祭祀を受けることになります。また、成帝は妄りに宗廟や寝園について議論したら棄死に処す法令(擅議宗廟之命)も恢復しました。
成帝時代は宗廟に関する議論ができなくなりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
成帝が詔を発しました「今、大辟の刑(死刑)は千余條もあり、律令も煩多(煩雑過多)で百余万言に上る。しかも奇請(成文化された法から外れて執行を求めること)、他比(前例に基いて行う刑)も日に日に増えている。(法を)明習した者でも所由(由来)が分からないのだから、衆庶(民衆)に曉喩(教え諭すこと)したいと欲しても困難ではないか。(このような法を用いて)元元の民(善良な民)を捕え、無辜(無罪の者)を夭絶(早死)させるのは、哀しいことではないか。よって、死刑を減らすことと蠲除約省(撤廃省略)できる内容を議論し、明確かつ理解しやすくして(較然易知)、條奏(一つ一つ上奏すること)せよ。」
しかし当時の有司(官員)は成帝の意志を広く宣揚することができず、微細な事ばかり探求し、取るに足らないような内容を数事だけ挙げて詔に応じました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴復株累若鞮単于が右皋林王伊邪莫演(『資治通鑑』胡三省注によると、「莫演」は「黄渾」ともいいます)等を漢に送って貢物を献上しました。翌年正月に入朝します(漢に入ったのは本年末、入朝は翌年です)
 
 
 
次回に続きます。