西漢時代251 成帝(九) 鉄飛 前27年(1)

今回は西漢成帝河平二年です。二回に分けます。
 
西漢成帝河平二年
甲午 前27
 
[] 『漢書帝紀』からです。
春正月、沛郡の鉄官が鉄飛を鋳ました(鉄官冶鉄飛)
 
『成帝紀』は「『五行志』に語(記述)がある」と書いています。
以下、『漢書五行志上』からです。
武帝征和二年(前91年)春、涿郡の鉄官が鉄を鋳造した時、熔かした鉄が全て飛び去りました。これは火に変異が発生したことが原因です。
同年三月、涿郡太守劉屈釐(劉屈氂)が丞相になり、一カ月後(後月)、巫蠱の事件が起こりました。武帝の娘に当たる諸邑公主、陽石公主および丞相公孫賀とその子太僕公孫敬声、平陽侯曹宗等が獄に下されて死にます(実際は、正月に丞相公孫賀とその子公孫敬声が殺され、三月に涿郡太守劉屈釐(劉屈氂)が丞相になり、その一カ月余後に諸邑公主と陽石公主が殺されました。平陽侯曹宗は曹参の子孫です。『漢書高恵高后文功臣表』によると、曹宗は中人(宦官または宮女)と奸を行い(恐らく、宮女と姦通したという意味です。原文「与中人奸」)、皇宮の掖門に許可なく入ったため、侯位を失いました。贖罪して死罪は免れています。しかし『史記曹相国世家』では「征和二年、太子劉據の事件に坐して死に、国が除かれた」としています)
七月、使者江充が太子宮で蠱を掘りました。太子(劉據)は母の皇后(衛子夫)と相談し、弁明できないことを恐れたため、まず江充を殺し、兵を挙げて丞相劉屈釐と戦いました。死者は数万人に上り、太子は敗走して湖県で自殺します。
翌年、劉屈釐も祝𥛜(呪詛)の罪を問われて要斬(腰斬)に処され、妻も梟首(首を晒す刑)にされました。
成帝河平二年(本年)正月、沛郡の鉄官が鉄を鋳造した時、鉄が下に落ちず、雷声か鼓声のような音が隆隆と轟きました。十三人の鋳工が驚いて逃げ出します。
音が止んでから鋳工が戻って見ると、地面が数尺も陥没しており、鑪(炉)が十に分かれていました。一つの鑪から銷鉄(熔けた鉄)が流星のように散らばり、全て天に昇っていきます。その様子は征和二年と同じでした。
この夏、成帝が舅(母の兄弟)五人を列侯に封じ、五侯と号しました。元舅(母の兄弟で最年長者)王鳳が大司馬大将軍として政治を行っています。
二年後、丞相王商が王鳳と対立していたため、王鳳が讒言しました。王商は官を免じられて自殺します(成帝河平四年25年参照)
その翌年、京兆尹王章が王商の忠直を訴え、王鳳の顓権(専権)に言及したため、王鳳が王章を大逆辠(大逆罪)として誣告しました。王章は獄に下されて死に、妻子は合浦に遷されます(成帝陽朔元年24年参照)
更に後に、許皇后が巫蠱に坐して廃され(成帝鴻嘉三年18年参照)、趙飛燕が皇后に、妹が昭儀になって皇子(成帝の子)を殺害しました。そのため成帝には後嗣ができませんでした。(成帝死後)皇后(趙飛燕)と昭儀は罪に服します。

[] 『資治通鑑』からです。
春、匈奴の伊邪莫演が漢成帝に朝見し、帰国する時、漢への投降を欲してこう言いました「私を受け入れないようなら、私は自殺する。(たとえ死んでも)還帰(帰還)するつもりはない。」
漢の使者がこれを成帝に報告しました。成帝は公卿に討議させます。
議者のある者が「故事(前例)に倣って投降を受け入れるべきです」と言いましたが、光禄大夫谷永、議郎杜欽が反対してこう言いました「漢が興ってから、匈奴がしばしば辺境の害となったので、金爵(黄金爵位の賞を設けて降者を待ちました。しかし今は単于が身を屈して臣を称し、北藩に列し、使者を送って朝賀し、二心がありません。漢家がこれに接するにも、往時とは態度を変えるべきです。今、既に単于の聘貢の質(誠意)を享受しながら、更にその逋逃(逃亡)の臣を受け入れたら、一夫を得ることを貪って一国の心を失い、罪がある臣を擁して義を慕う君を絶つことになります。あるいは、単于が即位したばかりで、中国に身を委ねたくても利害を判断できないので、秘かに伊邪莫演を送って偽りの投降をさせ、吉凶を卜おうとしているのかもしれません。これを受け入れたら徳を損なって善を壊し、単于を疎遠にさせて、辺境の官吏と親しませなくすることになります。またあるいは、反間を設けてこれを理由に間隙を作ろうとしているのかもしれません。これを受け入れたら、まさにその策に当たり、匈奴が)否を(漢に)帰して非誠実を責めることになるでしょう(帰曲而責直)。これは誠に辺境安危の原(原因。源)、師旅動静の首なので、よく考えなければなりません。受け入れない方がいいでしょう。受け入れないことで日月の信(日月のように明瞭な信義)を明らかにし、詐諼(詐欺。欺瞞)の謀を抑え、附親の心を懐柔させれば、(漢の)便(利。益)となります。」
成帝はこの意見に従うことにしました。
 
そこで中郎将王舜を派遣して伊邪莫演に投降の状況を問わせました。
すると伊邪莫演はこう言いました「私は発狂する病があるので(我病狂)妄言しただけです。」
漢は伊邪莫演を帰国させました。
帰国した伊邪莫演はそれまでと官位が変りませんでしたが、この後、単于が伊邪莫演を漢使に会わせることはありませんでした。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏四月、楚国で釜のように大きな雹が降りました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
山陽王劉康を定陶王に遷しました。
劉康は元帝の子、成帝の弟です。
 
[] 『漢書帝紀漢書外戚恩沢表』『資治通鑑』からです。
六月乙亥、成帝が諸舅(母王政君の兄弟)を封侯しました。
王譚は平阿侯諡号は安侯)、王商は成都(景成侯)、王立は紅陽侯(荒侯)、王根は曲陽侯(煬侯)、王逢時は高平侯(戴侯)です。
五人が同日に封侯されたため、世の人々は「五侯」と併称しました。
 
太后(王政君)の母李氏が河内の苟賓と再婚し(成帝建始元年32年参照)、苟参という子を生みました。
太后は田蚡の例(田蚡は景帝の皇后王氏の異父弟として封侯されました)にならって苟参も封侯させようとします。しかし成帝は「田氏を封じたのは正しいことではない(封田氏非正也)」と言って苟賓を封侯せず、侍中水衡都尉に任命しました。
 
 
 
次回に続きます。