西漢時代252 成帝(十) 夜郎の叛乱 前27年(2)
今回は西漢成帝河平二年の続きです。
王尊は罪に坐して免官されます。
しかし吏民の多くが王尊を惜しみ、湖(『資治通鑑』胡三省注によると、湖は県名で京兆に属します)の三老・公乗興(公乗が姓、興が名です。本来、公乗は爵位名で、二十爵のうちの第八爵に当たります。爵位から生まれた姓氏です)等が上書しました「王尊が京兆を治めてから、煩雑な政務を除いて混乱を正し(抜劇整乱)、暴を誅して邪を禁じました。これら全ての事は以前にはほとんどなく、名将(『資治通鑑』胡三省注によると、この「将」は「郡将」「郡守」の意味です)でも及びません。しかし命を拝して真になりながら(王尊は「行京兆尹事」として京兆尹の職を代行してから正式に京兆尹になりました)、まだ殊絶(特殊)な褒賞を尊身に加えられたこともないのに、今回、御史大夫が王尊について上奏し、『陰陽を傷害して国家の憂となり、詔書の意を承用(受け入れて実行すること)せず、言葉を飾るだけで行動は違えており、恭しい姿を見せながら実際は悪が天を満たしています(原文「靖言庸違,象恭滔天」。『尚書・堯典』の言葉です)』と言いました。
その根源は御史丞・楊輔から出ています(『資治通鑑』胡三省注によると、御史大夫には二丞がおり、秩は千石でした。中丞とも呼ばれました)。楊輔は以前から王尊との間に私怨があり、外見は公事に依って(公事を利用して)この議(議論。弾劾)を為すように建画(建議画策)し、傅致(無実の罪を加えること)上奏して、徐々に誣告を加えて浸透させているので(浸潤加誣)、臣等は心中で痛傷しています(『漢書・趙尹韓張両王伝(巻七十六)』によると、楊輔はかつて王尊の書佐を勤めていました。楊輔は酔って王尊の大奴(成人の奴僕。または奴僕の長)・利家を訪ねたことがありました。この時、利家が楊輔の頭をつかみ、頰を撃ちました。また、利家の兄の子・閎が刀を持って首を斬ろうとしました。この一件があってから、楊輔は王尊を深く怨んで害を与える機会を探していました)。王尊は修身して自分の行動を正し(修身潔己)、節を磨いて公を筆頭に置き(砥節首公)、刺譏は将相を憚らず(将相でも遠慮なく批難し)、誅悪は豪強を避けず、不制の賊(制御できない賊。『資治通鑑』胡三省注によると、傰宗等を指します)を誅し、国家の憂を解き、その功績は明らかで職を修めており、(朝廷の)威信を廃すことなく、誠に国家の爪牙の吏(頼りになる官吏)、折衝の臣(敵を破る臣)です。しかし今一旦にして無辜(無罪の者)が仇人の手に制され、詆欺(誹謗)の文によって中傷され、上は功によって罪を除くことができず、下は棘木の聴(公卿が訴えを聞くこと。『資治通鑑』胡三省注によると、『周礼』では三槐九棘の下で公卿が訴訟を聴きました。また、『王制』では大司寇が棘木の下で獄を裁きました)を蒙ることができず(朝廷に無罪を訴える機会がなく)、ただ怨讎の偏奏(一方的な上奏)を受けて共工の大悪を被り(共工のような悪名を背負い。共工は凶暴だったため堯舜時代に放逐されました)、冤罪を訴える場所がありません。
王尊は京師が廃乱し、群盗が並んで興ったので、賢才を選んで徵用され、家から起って卿となりました。しかし賊乱が既に除かれ、豪猾が辜(罪)に伏すと、佞巧を理由に廃黜(排斥罷免)されました。一尊(王尊一人)の身が三期(三年)の間で突然賢人になったり奸佞になったりしていますが(乍賢乍佞)、異常なことではありませんか(豈不甚哉)。孔子はこう言いました『彼を愛したら彼が生きることを欲し、彼を憎んだら彼が死ぬことを欲す、これは惑(困惑。惑い。聡明ではないこと)である(愛之欲其生,悪之欲其死,是惑也)。』『浸透する讒言を阻止したら、英明と称すことができる(浸潤之譛不行焉,可謂明矣)。』
よって(この案件を)公卿、大夫、博士、議郎に下して王尊の素行を評定させることを願います。人臣でありながら陰陽を傷害したら死誅の罪に当たります。言葉を飾りながら行動を違えていたら(靖言庸違)、放殛(放逐誅殺)の刑に当たります。実際に御史の章(上奏文)のようであるなら、王尊は観闕の誅(孔子が少正卯を両観の下で誅殺しました)に伏し、無人の域に放たれるべきであり、とりあえず免官するだけではすみません(または「これらの刑から逃れられません」。原文「不得苟免」)。また、王尊を任挙(能力を保証して推挙すること)した者(王鳳。成帝建始四年・前29年参照)は選挙の辜(罪)を得るべきであり、今のままでは済まされません(不可但已)。しかしもしも章(上奏文)のようではなかったら、文書を飾って誹謗を深くし(飾文深詆)、それによって無罪の者を訴えたことになるので、やはり誅殺して讒賊の口を懲らしめ、詐欺の路を絶たなければなりません。明主が参詳(詳しく考察すること)して白黒を分別することを請います。」
上書が提出されると、成帝は王尊を再び用いて徐州刺史に任命しました。
杜欽が大将軍・王鳳に言いました「蛮夷の王侯が漢使を軽易(軽視)して国威を畏れていません。議者が選耎(恐れて前に進まないこと)してこれからも和解の策を守ることを恐れます。太守が動静の変化を観察してそれを報告していたら、その間にまた一時(『資治通鑑』胡三省注によると、一時は三カ月です)を無駄にすることになるので、(蛮夷の)王侯はその衆を集めて訓練し(收猟其衆)、その謀を固める(申固其謀)ことができます。(蛮夷の)党助(党与。派閥)は数が多く、それぞれ忿(憤怒)に耐えられないので、必ず互いに殄滅し合います(滅ぼし合います。彼等の戦いを仲裁することはできません)。自分の罪が成立したと知ったら(彼等が自分の罪に気づいたら)、守尉(郡守・尉)を狂犯し(狂心によって侵犯し)、遠く温暑(熱暑)毒草の地に隠れるでしょう。そうなったら、たとえ孫・呉(孫武・呉起)のような将がおり、賁・育(孟賁・夏育)のような士がいても、水火に入るようなもので、向かったら必ず焦没し(焼け焦げるか水没し)、智勇を施すことができません。屯田して守っても、その費用は量り知れません。よって、その罪悪がまだ成らず、漢家が誅を加えることを疑っていないうちに(漢の討伐を警戒していないうちに)、秘かに傍郡の守尉に士馬を訓練するように命じ、大司農にあらかじめ穀物を調達させて要害の地に蓄え、任職の太守(職務を全うできる太守)を選んで派遣し、秋涼の時に進入して王侯の中で最も不軌(法に従わないこと)な者を誅殺するべきです。
もし不毛の地、無用の民であり、聖王がこのために中国を労すことはないと判断するなら、郡を廃して民を放棄し、その王侯と関係を絶って再び通じることがないようにするべきです。もし先帝が立てた累世の功なので墮壊(破壊)してはならないと判断するなら、やはりその萌牙(萌芽)に乗じて早く断絶するべきです。既に形を成してから師を戦わせたら、万姓(万民)が被害を受けることになります。」
王鳳は進言に納得して金城司馬で臨邛の人・陳立を牂柯太守に推挙しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、漢の郡守と尉の下には長史と司馬がいました。
数十人の邑君が言いました「将軍は無状(善行が無い者)を誅して民のために害を除きました。外に出て士衆を諭すことを願います。」
鉤町王・禹と漏臥侯・兪も震撼し、粟千斛と牛羊を納めて漢の吏士を労いました。
陳立は郡の治所に帰ります。
冬になってから、陳立が上奏して諸夷を募りました。
陳立は都尉、長史と共に兵を分けて翁指等を攻撃します。
翁指は険阻な地を利用して塁を築きました。
陳立は奇兵を使って糧道を絶ち、反間の計によって翁指の衆を誘います。
都尉・万年が言いました「兵(戦)が久しく決しなかったら、費用が供給できなくなる。」
万年は単独で兵を率いて進軍します。
ところが敗戦して陳立の営に走りました。
陳立は怒って戲下(部下)に叱咤し、万年が営に入るのを阻止させました。
万年は引き返して再び戦いに行き、陳立がこれを援けます。
ちょうど大旱の時だったため、陳立は水道を攻めて遮断しました。
蛮夷は共に翁指を斬り、その首を持って投降しました。
こうして西夷が平定されました。
『資治通鑑考異』によると、胡旦の『漢春秋』という書籍が本年十一月の事としています。但し、「何を根拠にしているかはわからない」と注記しています。
次回に続きます。