西漢時代255 成帝(十三) 王鳳専横 前24年(1)

今回は西漢成帝陽朔元年です。二回に分けます。
 
西漢成帝陽朔元年
丁酉 前24
 
漢書帝紀』の注によると、応劭が「当時は陰が盛んで陽が衰えていたため、『陽朔』に改元し、陽気の蘇息を願った」と解説しています。
しかし顔師古はこれを否定し、「朔は始の意味であり、前年、山陽で石の中から火が生まれたため、陽朔に改元した。陽気の始めという意味である」と書いています。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春二月丁未晦、日食がありました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
三月、天下の徒(囚徒)を赦しました大赦しました)
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
冬、京兆尹泰山の人王章が獄に下されて死にました。
 
当時は大将軍王鳳が政治を行っており、成帝も王鳳に謙譲して独断することがありませんでした。
ある日、成帝の左右の者が、光禄大夫劉向の少子劉歆が事象に精通していて異材であるとして、成帝に推薦しました。
成帝が劉歆を接見すると、劉歆は詩賦を暗唱しました。
成帝は劉歆をとても気に入り、中常侍に任命しようとします。
資治通鑑』胡三省注によると、中常侍は加官(兼任の官)で、禁中に出入りできます。当時は士人が担当していましたが、東漢になると宦者(宦官)が用いられるようになりました。
 
成帝が左右の者に中常侍の衣冠を持って来させて、劉歆を任命しようとしましたが、左右の者は皆こう言いました「まだ大将軍に報せていません。」
成帝が言いました「このような小事になぜ大将軍を関わらせる必要があるのだ(何須関大将軍)。」
しかし左右の者が叩頭して頑なに諫めます。
そこで成帝が王鳳に話しました。
その結果、王鳳が反対したため、任命は取り止めとなりました。
 
王氏の子弟は全て卿、大夫、侍中、諸曹となり、分かれて勢官(権勢を握る官)を掌握して朝廷を満たしました。
杜欽は王鳳の専権が重くなり過ぎているのを見て、戒めて言いました「将軍が周公の謙懼(謙虚で慎重な態度)に倣い、穰侯(魏冉)の威を減らし、武安(武安侯田蚡)の欲を棄て、范睢のような徒につけいる隙を与えないことを願います(毋使范睢之徒得間其説)。」
しかし王鳳は忠告を聴きませんでした。
 
当時、成帝には継嗣(後継者)ができず、体も常に不平(多病)でした。
定陶共王劉康元帝の子、成帝の弟)が来朝した時、太后(王政君)と成帝は先帝元帝の意志を受け継いで劉康をとても厚く遇しました。賞賜は他の王の十倍に上り、往事元帝が劉康を太子に立てようとした事)に対してわずかな怨みを抱くこともありません。
成帝は劉康を京師に留めて封国に帰らせようとせず、こう言いました「わしにはまだ子がいない。人命に終わりがあることは隠せないものだ(人命不諱)。一朝に他があったら崩御したら)、もう会えなくなってしまう。汝は長く留まってわしに侍れ。」
後に成帝の病が徐々に良くなりましたが、劉康は国邸(定陶王邸)に留まり、旦夕(朝と夜)とも成帝の傍にいました。
成帝は劉康ととても親しんで重用します。
しかし大将軍王鳳は劉康が京師にいることを心中で不便だと思っていました。
ちょうど日食があったため、王鳳が言いました「日食とは陰盛の象(陰が盛んになっている象徴)です。定陶王は親(親族。親しい関係)ですが、礼においては自分の国で藩を奉じるべきです(藩国を守るべきです)。今、京師に留まって(陛下に)侍っており、正に違えて常道ではないので(詭正非常)、天が戒を示したのです。王を派遣して国に行かせるべきです。」
成帝は王鳳に抵抗できないため、やむなく同意しました。
劉康が去る時、成帝と劉康は互いに涙を流して別れを惜しみました。
 
王章は元から剛直で、敢えて諫言して懼れることがありませんでした。王章は王鳳に推挙されましたが(『資治通鑑』胡三省注によると、王章は王鳳の推挙によって京兆尹になりました)、王鳳の専権に反対しており、王鳳と親しくしようとはしませんでした。
そこで封事(密封した上書)してこう言いました「日食の咎は全て王鳳による専権蔽主の過(専権して主を凌駕している過ち)が原因です。」
成帝は王章を召して詳しく問いました。
王章が答えて言いました「天道は聡明なので、善を助けて悪に災いを与え(佑善而災悪)、瑞応(瑞祥や異変)を符效(吉凶の兆し)にします。今、陛下はまだ継嗣がいません。定陶王を招いて近づけるのは、宗廟を継承し、社稷を重んじ、上は天心に順じ、下は百姓を安んじるためであり、正議(正しい考え)・善事なので祥瑞が現れるべきです。どうして災異が訪れるでしょう。災異の発生は大臣の専政が原因です。最近聞いたところでは、大将軍は日食の咎を曲解して定陶王に帰し、国に送るように建議したとのことですが、不当にも天子を上に孤立させ、朝事を顓擅(専断)して私欲を満足させようと欲しており、忠臣ではありません。そもそも日食とは、陰が陽を侵すことであって、臣が君権を専断していることの咎です(臣顓君之咎)。今、政事は大小に関わらず全て王鳳から出ており、天子は一度も手を挙げたことがありません。しかし王鳳は内を省責(反省)せす、逆に咎を善人に帰し、定陶王を押して遠ざけました。しかも王鳳の誣罔不忠(誣告によって欺く不忠な行為)はこの一事だけではありません。以前の丞相楽昌侯王商は本来、先帝の外属(宣帝の母の兄弟王武の子です)に当たり、内は行篤(忠厚)で威重があり、位は将相を歴任し、国家の柱石の臣でした。その為人は正(正道。正義)を守り、節を屈して王鳳に迎合しようとしなかったため(不肯屈節隨鳳委曲)、最後は閨門(寝室。家庭)の事を利用されて王鳳によって罷免され、その身は憂いのために死に、衆庶(民衆)がこれを憐憫しました。また、王鳳は自分の小婦(妾)の弟(女弟。妹を指します)張美人が既に人に嫁いでおり、礼においては至尊(皇帝)に配御させるべきではないと知っていながら、宜子(子を生む能力がある女)という理由で後宮に入れ、自分の妻の弟(妹)に利益を得させようとしました(苟以私其妻弟)。しかし聞くところによると、張美人はまだ任身(妊娠)就館(出産のために他の部屋に移ること)していません。そもそも、羌、胡でも首子は殺して盪腸正世(腹内を洗浄して血統を正すこと)するものです(再婚した場合は血統を純正にするために、最初に生まれた子は殺すものです)。天子ならなおさらです。どうして既に出た女(他家に嫁いだ女)を近づけることができるのでしょうか。
この三者は全て大事であり、陛下が自ら見てきたことなので、残りの事も、これらの他に目に見えない事も充分推して知ることができるはずです。王鳳に久しく政事を主管させてはなりません(不可令久典事)。退けて家に帰らせ(退使就第)、忠賢の者を選んで彼に代えるべきです。」
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代256 成帝(十四) 王章と馮野王 前24年(2)