西漢時代256 成帝(十四) 王章と馮野王 前24年(2)

今回は西漢成帝陽朔元年続きです。
 
[(続き)] 王鳳が王商を弾劾して罷免させ、後には定陶王を国に帰らせたため、成帝は王鳳に対して不平を抱えていました。
王章の進言を聴いた成帝はついに感寤(覚醒。悟ること)し、意見を採用して王章に言いました「京兆尹の直言がなかったら、わしは社稷の計を聞けなかった。そもそも賢人だけが賢人を知ることができる。君は試しに朕のために輔佐できる者を求めよ。」
王章は封事を上奏し、信都王劉興元帝の子)の舅(母の兄弟)に当たる琅邪太守馮野王(馮奉世の子)が忠信質直で余りある智謀を有しているとして推挙しました。
成帝も太子だった頃からしばしば馮野王の名を聞いていたため、馮野王に頼って王鳳に代えようと欲しました。
 
成帝は王章を招くたびに左右の者を退けて話をしていました。しかしこの時は、太后(王政君)の従弟の子に当たる侍中王音が傍で盗み聞きしており、王章の言を詳しく知って王鳳に伝えました。
資治通鑑』胡三省注によると、王太后の従弟は長楽衛尉王弘といい、その子が侍中王音に当たるという説と、王弘は王太后の叔父(王禁の兄弟)で、王音は王太后の従父弟(父の兄弟の子)に当たるという説があります。胡三省は後者が恐らく正しいとしています(その場合、『資治通鑑』本文の「太后の従弟の子」という記述は誤りになります)
 
王音の報告を聞いた王鳳は非常に憂いて恐れました。
そこで杜欽が王鳳に朝廷を出て家に帰ること(出就第)を勧めました。
王鳳は上書して引退を乞います(乞骸骨)。上書の内容は悲哀に満ちていました。
これを聞いた王太后は涙を流して食事を採らなくなりました。
成帝も若い頃から王鳳と親しくして頼りにしていたため、廃すには忍びず、結局、優詔(優遇する詔)を発して王鳳に報い、職務に復帰するように励ましました。こうして王鳳が再び政治を行うようになります。
 
成帝は逆に王章を責めました。
王章が推挙した馮野王は馮奉世の子で、元帝が寵愛した馮昭儀(信都王劉興の母)の兄です。元帝時代に大鴻臚(九卿)になりました。しかし元帝後宮の親属を偏愛するのを避けて、馮野王を御史大夫の人選から外したことがありました元帝竟寧元年33年参照)
漢書馮奉世伝(巻七十九)』によると、成帝が即位してから、有司(官員)が「野王は王舅(諸侯王の母の兄弟)なので九卿(大鴻臚)に備えるのは相応しくありません」と上奏したため、上郡太守になり、後に琅邪太守に遷されました。
成帝は王章が馮野王を推挙した事と上書の内容を挙げて、尚書に王章を弾劾させました「野王は王の舅なのでかつて(中央を)出て(地方の)吏を補うことになったのに、(王章は)私心によってこれを推薦し、朝廷に置かせて諸侯に阿附(阿諛)しようとしました。また、張美人が至尊(皇帝)に仕えている(体御至尊)と知りながら、羌、胡が子を殺して盪腸していることを妄りに引用して語りました。相応しい発言ではありません(非所宜言)。」
宣帝は王章を吏(官吏。獄吏)に下しました。
廷尉は王章の罪を大逆罪に到らせて「上(陛下)を夷狄と並べ(比上夷狄)、継嗣の端を絶とうと欲した。また、天子に背畔(背反)して、私的に定陶王のために動こうとした」と判決します。
王章は獄中で死に、妻子は合浦に遷されました。
この後、公卿は王鳳に会っても正視できず、横目で見るようになりました(側目而視)
 
王章が獄死したため、馮野王は懼れて不安になり、病を患いました。
休暇として与えられた三カ月が経っても快癒しないため、成帝は更に休みを与えます(この休暇を「賜告」といいます。漢代の高官が病を患ったら、三カ月の休養が許されていました。三カ月を越えたら罷免されます。しかし皇帝から「賜告」を与えられた場合は、休暇の延長が許されました。かつては武帝時代に汲黯が「賜告」を得て優遇されました武帝建元六年135年参照)
 
琅邪太守馮野王は妻子を連れて故郷の杜陵に帰り、療養しました。
すると大将軍王鳳が御史中丞に示唆して馮野王を弾劾させました。その内容はこうです「野王は賜告によって養病することになったのに、勝手に便を図り(私自便)、虎符を持って郡界を越え、家に帰りました。詔を奉じて不敬を行っています(奉詔不敬)。」
杜欽が王鳳に記(文書)を提出してこう伝えました「二千石(郡守)が病を患い、賜告によって帰ることができたというのは、故事(前例)があります。また、郡から去ってはならないというのは、著令(成分化した法令)がありません。『伝(詳細は分かりません)』にはこうあります『賞すべきか疑いがある時は賞を与えるべきである(賞疑従予)。』これは恩を広くして功を勧める(奨励する)ためです。『罰するべきか疑いがある時は去る(罰を除く)べきである(罰疑従去)。』これは刑を慎重にして、知るのが困難な事は除くためです(疑問がある案件は裁かないようにするためです。原文「闕難知也」)。今、令と故事(前例)を廃して不敬の法を口実にしたら、『闕疑従去(疑問のある案件を除いて罰を去らせること。あるいは「罰疑従去」の誤りかもしれません)』の意に甚だ違えることになります。二千石(郡守)が千里の地を守り、兵馬の重(重責)を任せられているので、郡を去るべきではないという理由で刑を制定して後の法にするとしても、野王の罪は令を制定する前のことです。刑と賞には大信が必要なので、慎重にしなければなりません。」
王鳳は杜欽の意見を聴かず、馮野王の官を免じました。
 
当時、衆庶(民衆)の多くが王章の冤罪を信じて朝廷を批難しました。
杜欽は王鳳を過失から救おうと思い、改めて王鳳に言いました「京兆尹章が坐した事(罪)は秘密にされているので、京師の人も詳しくは知りません。遠方ならなおさらです。恐らく天下は王章に確かに罪があったことを知らず、言事に坐した(諫言が罰せられた)と思っています。これでは争引(諫争。『資治通鑑』胡三省注によると、類似する例を引用して諫争すること。または下が諫争して上が採用すること)の原(元)を塞ぎ、寬明(寛大英明)の徳を損なうことになります。欽(私)の愚見によるなら、王章の事を利用して直言極諫の士を挙げさせ、併せて現在の郎や従官にもその意見を全て発表させ(展尽其意)、以前よりも(諫言の道を)加えて四方に明示し、天下の者全てに、主上は聖明であり、言によって下を罪としない(罰しない)ということを知らせるべきです。こうすれば、流言が消釈(消去)され、疑惑が解かれます(疑惑著明)。」
王鳳はこの策を成帝に報告して実行しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、陳留太守薛宣が左馮翊になりました。
 
薛宣が郡を治めていた頃、いたる所で声迹(声望と実績)がありました。
薛宣の子薛恵は彭城令になりました。
薛宣が彭城県を通ったことがありましたが、心中で薛恵に能力がないことを知っていたため、吏事(官務。政治)について問いませんでした。
ある人が薛宣に聞きました「なぜ恵(子)に吏職に就いて教戒しないのですか?」
薛宣は笑ってこう言いました「吏道とは法令を師とし、(法令に)問えば(何をするべきか)知ることができる。できるかできないか(能力があるかないか。原文「能與不能」)に至っては、自ずから資材(資質。天分)がある。どうして学ぶことができるか(教戒しても無駄だ)。」
衆人は称賛して語り伝え、薛宣の言の通りだと思って納得しました。
資治通鑑』胡三省注は「当時の人は薛宣の言をその通りだと思ったが、実際にはそうとは限らない(実未必然也)」と注釈して薛宣の考えに反対しています。
 
 
 
次回に続きます。