西漢時代257 成帝(十五) 劉向の進言 前23年

今回は西漢成帝陽朔二年です。
 
西漢成帝陽朔二年
戊戌 前23
 
[] 『漢書帝紀』からです。
春なのに寒冷が続きました。
成帝が詔を発しました「昔、帝堯が羲和の官を立てた時(帝堯は羲氏と和氏を天地を管理する官に立てました)、四時(四季)の事を命じ、その序(秩序)を失わせないようにした。そのため、『書尚書堯典)』には『黎民(庶民。民衆)はそれによって睦まじくなった(原文「黎民於蕃時雍」。「蕃」は「変」、「時」は「是」、「雍」は「和」です。「黎民於変是和」となります)』と書かれている。陰陽を明らかにすることを本(根本)としたのである。今の公卿大夫は、ある者は陰陽を信じず、これを軽視しているため(薄而小之)、奏請(上奏して請うこと)の多くが時政(月令。季節ごとの法則、決まり)に違えている。不知によって伝えて広く天下に行わせているのに(陰陽を理解していない上の者が、知らないまま政令教化を下に伝え、それを天下に広めて行わせているのに。原文「傳以不知,周行天下」)、陰陽の和調を望み欲するのは、謬(間違い。荒唐)ではないか(豈不謬哉)。よって四時(四季)月令(時政)に順じることに務めよ。」
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春三月、天下に大赦しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
御史大夫張忠が死にました。
夏四月丁卯(二十七日)、侍中太僕王音(前年参照)御史大夫に任命しました。
 
この後、王氏の権勢がますます盛んになり、郡国の守相や刺史は全て王氏の門下から出るようになりました。
五侯群弟(『資治通鑑』胡三省注によると、「群弟」は恐らく「兄弟」の誤りです。王譚、王商、王立、王根、王逢を指します)が奢侈を争い、賄賂礼物による珍宝が四方から集まりました。但し、五侯は人事に通じており、士を愛して賢才を養い、家財を傾けて施しを行うことを高尚としました(栄誉とみなしました)
そのため賓客が門を満たし、競って王氏のために声誉を宣揚しました。
 
劉向が陳湯に言いました「今、災異がこのようであるのに、外家外戚は日に日に盛んになっている。このままでは必ず劉氏を危うくするだろう。私は幸いにも同姓の末属(支属)となることができ、累世(代々)漢の厚恩を蒙り、身は宗室の遺老となり、三主(宣帝、元帝、成帝)にわたって仕えてきた。上(陛下)は私を先帝の旧臣とみなし、進見(謁見)するたびに、常に優礼を加えている。それなのに私が言わなかったら、他に誰が言うべきだろう。」
 
劉向は封事(密封した上書)によって厳しく諫言しました「臣が聞くに、人君で安(安寧)を欲しない者はいませんが、それでも常に危(危難)があります。存(存続)を欲しない者はいませんが、それでも常に亡(亡国)があります。これは御臣の術(臣下を制御抑制する術)を失っているからです。大臣が権柄を操り、国政を主持したら、害とならなかった者はいません。だから『書尚書洪範)』はこう言っています『臣下が賞罰を行ったら、家に対して害があり、国に対して凶となる(臣之有作威作福,害于而家,凶于而国)。』孔子はこう言いました『俸禄が公室から去ったら、政権が大夫に及ぶ(公室が臣下の俸禄を管理できなくなったら、政権が大夫に握られる。原文「禄去公室,政逮大夫」)。』これは危亡の兆です。今、王氏一姓において朱輪華轂(王侯貴族の豪華な車)に乗る者は二十三人もおり、青紫貂蝉(高官・側近。『資治通鑑』胡三省注によると、列侯は紫綬、二千石は青綬を佩しました。侍中、中常侍の冠には貂の尾と蝉の形をした飾りがつけられていました)が幄内(朝廷中)を満たし、魚鱗のように(陛下の)左右に並んでいます。大将軍が秉事用権し(政事を主管して権勢を用い)、五侯の驕奢が僭盛し(礼を越えてますます盛んになり)、共に威福を為し(賞罰を勝手に行い)、撃断自恣(「撃断」は「独断」「専断」、「自恣」は「恣にすること」です)しています。行動が汚れているのに治世のためとし(行汙而寄治)、その身は私心を抱いているのに公事のためとし(身私而託公)東宮の尊(皇太后の尊位。『資治通鑑』胡三省注によると、太后は長楽宮に住んでおり、長楽宮は未央宮の東にあったので東宮といいます)に頼り、甥舅の親(皇帝との親族関係)を借りて威重を為しています。尚書、九卿、州牧、郡守は全てその門から出ており、枢機を管執(掌握)し、徒党を組んで結託し(朋党比周)、称誉した者は登進(昇格)して、忤恨(反対)した者は誅傷され、游談(遊説)の者はこれ(王氏)を援けて説き、執政の者はこれのために語っています。宗室を排擯し、公族を孤弱にし、(宗族で)智能がある者は特に非毀(誹謗)して進めず、(彼等を)宗室の任から遠絶させ、朝省(朝廷)で給事(働くこと)できなくさせ、彼等が自分と分権することを恐れています。しばしば燕王、蓋主の事(王族宗室の乱)を語って上(陛下)の心に疑いを持たせていますが、呂、霍の事(呂氏と霍氏が起こした外戚の乱)は避諱(避けて隠すこと)して語ろうとしません。内には管西周初期に謀反しました)の萌がありながら、外では周公(管蔡の乱を平定しました)の論を借り、兄弟で重職を掌握し、宗族(王氏の一族)が盤互(連結)し、上古から秦、漢に至るまで、外戚の僭貴(分を越えた顕貴)で王氏のようだった者はいません。
物が盛んになったら、必ず非常の変(変異)が先に現れ、その人の微象(衰退する兆し)となります。孝昭帝の時、冠石(大石の名。『漢書楚元王伝(巻三十六)』によると、冠山下の石だったため、冠石といいます)が泰山で立ち、倒れた柳が上林で起きて(昭帝元鳳三年78年参照)、孝宣帝が即位しました。今、済南にある王氏の先祖の墳墓(『資治通鑑』胡三省注によると、王氏は元々済南東平陵の人です。武帝時代に繡衣御史王賀が免官されて魏郡元城に遷りました)では、梓の柱に枝葉が生え、扶疏(繁茂)して家屋の上に出て、根が地中にはっています(根𠚏地中)。たとえ石が立って柳が起き上がったとしても、これより明らかなことはありません。事勢(事象の法則)において、二つの大きな勢力が並存することはできないものです。王氏と劉氏も並立することはありません。もし下(王氏)に泰山の安があったら、上(劉氏)に累卵の危があります。陛下は人(先帝)の子孫として宗廟を守持していますが、国祚(国運)を外親に移させて皁隸(卑賎の人)に降っています。自身のために考えないとしても、宗廟はどうするつもりですか(縦不為身柰宗廟何)。婦人は夫の家を内とし、父母の家を外にするものなので、これは皇太后の福にもなりません。孝宣皇帝が舅(母の兄弟)の平昌侯に権勢を与えなかったのは、全安保全。安全)のためです。
明者(英明な者)は形が無いうちに福を起こし、未然のうちに患を除くものです。よって、明詔を発し、徳音を放ち、宗室を招いて近くに置き、親しんで納信(意見を採用して信任すること)するべきです。外戚を黜遠し(廃して遠ざけ)、政権を授けず、全て罷免して家に帰らせ(皆罷令就弟)、そうすることで先帝の行いに倣い、外戚を厚安(厚遇して安んじること)し、その宗族を全うさせるのが、誠に東宮に意であり、外家の福となります。王氏が永存してその爵禄を保ち、劉氏が長く安らかになって社稷を失わなければ、外内の姓が広く和睦し(褒睦外内之姓)、子子孫孫を無疆(無窮)にする計となります。もしこの策を行わなかったら、田氏が今また現れて六卿が必ず漢に起こり(田氏は戦国時代初期に斉を乗っ取りました。六卿は春秋時代の晋で専横し、後に晋を三分しました)、後嗣の憂になるのは明らかです(昭昭甚明)。陛下の深留聖思(深く留意して検討すること)を請います。」
上奏文が提出されると、成帝は劉向を招きました。
成帝は劉向の心意を知って嘆息悲傷し、こう言いました「君はもう言うな。わしはこれを考慮しよう(君且休矣。吾将思之)。」
しかし結局、成帝は劉向の建議を採用できませんでした。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
五月、八百石と五百石の官吏の秩を減らしました。
漢書』の注によると、八百石は六百石に、五百石は四百石になりました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋、関東で大水(洪水)がありました。
流民で函谷、天井、壺口、五阮の関に入ろうとした者は苛留(極力留めること。阻止)しませんでした。
成帝は諫大夫や博士を分けて派遣し、各地を巡視させました。
 
[] 『漢書帝紀』『漢書哀帝紀』と資治通鑑』からです。
八月甲申(中華書局『白話資治通鑑』は「甲申」を恐らく誤りとしています)、定陶王劉康(共王)が死にました。
 
劉康は元帝の子で成帝の弟です。母は傅昭儀です。
劉康の子劉欣が定陶王を継ぎました。この時、三歳です。
 
成帝には子ができなかったため、劉欽は後に成帝の皇太子に立てられ、成帝死後、即位して哀帝になります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、信都王劉興が中山王に遷されました。
 
劉興も元帝の子で成帝の弟です。母は馮昭儀です。
後に劉興が死んで子の劉衎が中山王を継ぎますが、哀帝に子ができなかったため、哀帝死後、劉衎が即位して平帝になります。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
皇帝の命を受けた者が職責を全うできませんでした(奉使者不称)
九月、成帝が詔を発しました(詔の内容と「奉使者不称」が合っていないように思えます)「古に太学を立てたのは、先王の業を伝えて天下に流化(教化を広げること)するためである。儒林の官は、四海淵原(「四海」は天下、「淵原」は事象の根源。ここでは恐らく万物を理解して博学なことを意味します)、全て古今に明るく、温故知新でき、国体(国家の本質)に通達しているべきであり、だから博士というのである。そうでなければ学者(博士に学んだ者)は無述となり(学者は道を述べることができず。原文「学者無述焉」)、下の者に軽視され、道徳を尊ぶことにならない。工匠がある事をうまく完成させようと欲したら、まずその道具を鋭利にするものだ(原文「工欲善其事,必先利其器」。『論語』の言葉です)。よって丞相、御史は中二千石、二千石と共に博士の位に充てることができる者を雑挙(共同で推挙すること)し、(その能力を)卓越させて観えるようにせよ(使卓然可観)。」
 
 
 
次回に続きます。