西漢時代258 成帝(十六) 王立 前22~21年

今回は西漢成帝陽朔三年と四年です。
 
西漢成帝陽朔三年
己亥 前22
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
春三月壬戌(中華書局の『白話資治通鑑』は「壬戌」を恐らく誤りとしています)、八つの隕石が東郡に落ちました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月、潁川の鉄官徒申屠聖等百八十人が長吏(県級の高官)を殺し、庫兵(府庫の武器)を盗み、自ら将軍を称して九郡を経歴しました。
 
漢代は各地に鉄官を置いて鉄を管理していました。「鉄官徒」は鉄官に属す徒(服役の人。刑徒)で、鉄の生産に従事していました。
成帝永始三年(前14年)にも山陽の鉄官徒蘇令等が挙兵します。
 
朝廷は丞相長史、御史中丞を派遣して逐捕(追跡逮捕)させました。丞相長史等は軍興(戦時の法令制度。軍法)に則って行動します。
申屠聖等は全て辜()に伏しました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋、大司馬大将軍王鳳が病を患いました。
成帝がしばしば自ら王鳳を訪ね、手をとって涕泣し、こう言いました「将軍が病に倒れた。もしものことがあったら(原文「如有不可言」。直訳すると「もしも言えないことがあったら」です。「言えないこと(不可言)」とは「死」を指します)、平阿侯譚に将軍を継がせよう。」
王鳳が頓首して泣きながらこう言いました「譚等は臣と至親にありますが、皆、行いが奢僭(奢侈で礼を越えていること)なので、百姓を率導(統率教導)することはできず、御史大夫音の謹敕(慎重で行いが正しいこと)に及びません。臣が敢えて死をもって保証します。」
やがて王鳳が死に臨むと、上書して成帝に謝意を示し、再び自分に代えて王音を用いるように強く薦め、王譚等五人は決して用いてはならないと言いました。
成帝はこれに同意します。
以前、王譚は驕慢で王鳳に従おうとせず、逆に王音は王鳳を敬って子のように卑恭(腰が低くて恭順な様子)だったため、王鳳は王音を推挙しました。
 
王譚と王音の関係を整理します。
王譚は王禁の子で、王鳳、王政君(成帝の母)の弟です。但し、王鳳と王政君の母は同じですが、王譚は母が異なります(王鳳と王政君のどちらが年上かははっきりしません。成帝建始元年32年参照)
王音は恐らく王政君の従父弟(父王禁の兄弟の子)です(成帝陽朔元年24年参照)
 
八月丁巳(二十四日)、王鳳が死にました。
 
九月甲子(初二日)、成帝が王音を大司馬車騎将軍に任命しました。
 
王譚は位を特進(特進侯。三公の下、諸列侯の上に位置します)とし、城門兵を主管することになりました(領城門兵)
資治通鑑』胡三省注によると、長安の十二城門にはそれぞれ屯兵がいました。王譚はそれを指揮します。
王譚が大司馬大将軍の地位を継げなかったため、安定太守谷永が王譚に城門の職を辞退するように勧めました。王譚はこれに従って城門の職を受けませんでした。
この後、王譚と王音が互いに不平を抱きます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬十一月丁卯(初六日)、光禄勳于永を御史大夫に任命しました。
于永は于定国(宣帝元帝時代の丞相)の子です。
 
 
 
西漢成帝陽朔四年
庚子 前21
 
[] 『漢書帝紀』からです。
春正月、成帝が詔を発しました「『洪範(『尚書』の一篇)』の八政(施政の八つの内容)は食を首(筆頭)としている。これは誠に家給刑錯(「家給」は各家が自給自足すること、「刑錯」は刑を用いないことを指します。天下泰平を意味します)の本(基礎根本)である。先帝は(民を)農に勉めさせ(劭農)、租税を薄くし、強力(農耕に尽力する人)を寵し(優遇し)、彼等を孝弟(悌)と同科(同等)にさせた。しかし最近は、民に惰怠が拡がり、本(農業)に向かう者が少なくなり、末(商工業)に走る者が多くなっている。どうやってこれを矯正するべきだろうか。ちょうど東作(東は春を象徴する方位です。東西南北はそれぞれ春夏秋冬にあてはまります。春は農耕を始める時なので、「東作」は春耕を指します)の時なので、二千石に命じて農桑を勉勧(奨励)させる。阡陌(あぜ道)に出入りして労来(従順な者を労うこと。ここでは農業を奨励するという意味です)を施せ。『書(『尚書盤庚』)』にはこうあるではないか『農業に励んで尽力すれば、秋の収穫が得られる(服田力嗇,乃亦有秋)。』だからこれを奨励しよう(其勗之哉)。」
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春二月、天下に大赦しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏四月、雪が降りました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋九月壬申(十六日)、東平王劉宇(思王)が死にました。
劉宇は宣帝の子です。
 
漢書諸侯王表』によると、劉宇の死後、煬王劉雲が継ぎました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
少府王駿が京兆尹になりました。
王駿は王吉(宣帝神爵元年61年参照)の子です。
 
以前、京兆は趙広漢、張敞、王尊、王章が勤め、今回、王駿に至りました趙広漢と張敞は宣帝時代、三王は成帝時代です)
五人とも有能で名声があったため、京師の人々は彼等を称えて「前に趙張がおり、後ろに三王がいた(前有趙張,後有三王)」と言いました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
閏月(中華書局『白話資治通鑑』は「閏十二月」としています)壬戌(初七日)御史大夫于永が死にました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
烏孫の小昆彌烏就屠が死に、子の拊離が跡を継ぎましたが、弟の日貳に殺されました。
 
漢が使者を送って拊離の子安日を小昆彌に立てました。
日貳は康居に奔って自分を守ろうとしましたが、安日が貴人姑莫匿等三人を派遣し、偽って日貳に従うふりをして刺殺しました。
 
西域諸国が上書し、以前の西域都護段会宗を再び着任させるように請いました。
成帝はこれに同意して段会宗を派遣します。
それを聞いた城郭諸国はそろって親附しました。
 
漢書傅常鄭甘陳段伝(巻七十)』によると、段会宗は字を子松といい、天水上邽の人です。竟寧年間元帝時代。前33年の一年のみです)に、五府(丞相府、御史府、車騎将軍府、前将軍府、後将軍府)の推挙によって杜陵令から西域都護騎都尉光禄大夫になりました。
西域諸国がその威信を敬います。
その後、三年で任期を終えて帰還し、沛郡太守になりました。
漢書傅常鄭甘陳段伝』の注によると、辺吏は三年ごとに交替しました(三歳一更)
但し、成帝建始四年(前29年)に段会宗が烏孫に包囲されたという記述があります。元帝の竟寧時代に西域都護に任命されたとしたら、三年以上、西域都護を勤めていたはずです。
 
単于が入朝することになった時(成帝河平四年25年、匈奴復株累若鞮単于が来朝しました)、段会宗は雁門太守に遷されました。
しかし数年後に法に坐して罷免されます。
更に後に西域諸国が上書して段会宗の着任を求めたため、陽朔年間に再び都護になりました(『漢書傅常鄭甘陳段伝』は具体的な年を明記していません)
 
漢書西域伝下(巻九十六下)』を見ると、安日が貴人姑莫匿等の三人を送って日貳を刺殺したため、都護が姑莫匿等に一人当たり金二十斤と繒三百匹を下賜しています。
当時の西域都護は廉という人物で、廉の後に段会宗が再び西域都護になったようです。
 
 
 
次回に続きます。