西漢時代259 成帝(十七) 成帝の微行 前20年

今回は西漢成帝鴻嘉元年です。
 
西漢成帝鴻嘉元年
辛丑 前20
 
[] 『資治通鑑』からです。
谷永が上奏しました「聖王は名誉(名声)を実効(実際の成果、功績)よりも上にはしませんでした(聖王不以名誉加於実效)御史大夫は任が重く職が大きいものです。少府(薛宣)は従政(政務)に達しています(精通しています)。陛下の留神(留意)考察を願います。」
成帝は納得しました。
 
春正月癸巳(初九日)、薛宣を御史大夫に任命しました。
御史大夫は昨年、于永が死んで空位になっていました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
二月、成帝が詔を発しました「朕は天地を承って宗廟を保つことになったが、明においては蔽があり(政事や民情に対して明るくなく。原文「明有所蔽」)、徳においては(天下を)安寧にできず(徳不能綏)、刑罰は適切でなく(刑罰不中)、多くの人が失職(職業や生活の場を失うこと)を怨んでおり(衆冤失職)、闕に走って告訴する者が絶えない。それによって陰陽が錯謬(錯乱)し、寒暑が秩序を失い、日月が光らなくなり、百姓が辜(罪)を蒙っているので、朕は甚だこれを憐憫する。『書尚書文侯之命)』にはこうあるではないか『わしが政治を行っているのに、耆寿(老齢で徳がある者)が全くいない。咎はこの身にある(『漢書帝紀』は「即我御事,罔克耆寿,咎在厥躬」としていますが、『尚書』の原文は「即我御事,罔或耆寿,俊在厥服」です)。』ちょうど春の生長の時なので、諫大夫理等を臨遣(皇帝が直接指示を与えて派遣すること)し、三輔、三河、弘農の冤獄を挙げさせる。公卿大夫、部刺史は守相に対して明らかに申敕(訓戒)し、朕の意にそわせよ。天下の民に爵一級を、女子には百戸ごとに牛酒を下賜し、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)には帛を加えて与える。逋貸(官物を借りて返さないこと)してまだ納入していない者からは回収しないことにする(逋貸未入者勿收)。」
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月壬午(二十八日)、成帝が初陵(建設を開始したばかりの墓陵。恐らく下述する昌陵)行幸し、作徒(陵墓建設に従事する刑徒)を赦しました。
 
成帝は建始二年(前31年)閏正月に渭城延陵亭を初陵の地に定めました。これを延陵といいます。
しかし今回、新豊の戲郷(『資治通鑑』胡三省注によると、「戲水の郷」)を昌陵県に改め、初陵を奉じさせることにしました。百戸ごとに牛酒を下賜します。
 
こうして昌陵に陵墓が遷されましたが、後にまた延陵に戻されます(成帝永始元年16年)
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
成帝が微行(おしのび)を始めました。
資治通鑑』胡三省注によると、「微行」というのは、身分が高い者が警蹕(道を清めたり警護すること)をせずに市里に出入りすることを指します。微賎の者(庶人)の行為なので「微行」といいます。
 
成帝に従う期門郎や私奴は十余人で、小車に乗ったり、全員騎馬して市里や郊野に出入りしました。
遠い時は傍県長安周辺の諸県)の甘泉、長楊、五柞に至り、闘鶏や走馬(競馬)をして遊びました。
 
成帝はいつも富平侯の家人を自称しました。富平侯は張安世の四世孫張放です。
張放の父張臨は敬武公主(『漢書張湯伝(巻五十九)』の注には、敬武公主は「成帝の姉」、または「元帝の姉」という説が紹介されていますが、顔師古は「二説とも誤りで、元帝の妹」としています)を娶りました。敬武公主の子が張放です。
張放は侍中中郎将になり、許皇后の妹を娶りました。
当時、成帝の寵幸が張放を越える者がいなかったため、成帝は富平侯の家人を名乗りました。
 
以下、『漢書張湯伝(巻五十九)』と『漢書外戚恩沢表』からです。
張安世は武帝時代の酷吏張湯の子です。張安世の代に富安侯に封じられ諡号は敬侯です)、その後、張延寿(愛侯)、張勃(または「張敞」。繆侯)、張臨(共侯)を経由して張放(思侯)の代になりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
三月庚戌(二十七日)、丞相張禹が老病を理由に免官されました。
列侯として朔(毎月初日と十五日)に朝見することになります。位は特進(特進侯。三公の下、諸列侯の上の地位)になり、朝見では丞相と同等の礼が用いられ、前後して数千万銭が賞賜として与えられました。
 
夏四月庚辰(二十七日)御史大夫薛宣を丞相に任命して高陽侯に封じました。
京兆尹王駿が御史大夫になりました。
 
当時は王音が成帝の従舅(母側の祖父の兄弟の子。成帝の母は王政君で、王政君の父は王禁です。王禁には王弘という兄弟がおり、王弘の子が王音に当たります)という立場で、成帝より関係が近い親族(王太后の兄弟)を越えて政事を行っており、自ら慎重に政務を処理していました。
しかし王音は御史大夫から直接、将軍になったため(成帝陽朔三年22年、王音は御史大夫から大司馬車騎将軍になりました)、宰相として封侯される機会がありませんでした西漢は公孫弘以来、丞相に任命されたら封侯されることになっています)
 
六月乙巳(中華書局『白話資治通鑑』は「乙巳」を恐らく誤りとしています)、成帝が王音を安陽侯に封じました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬、黄龍が真定に現れました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
呼韓邪単于は左伊秩訾王の兄の娘二人を寵愛していました。
長女は顓渠閼氏となり、二子を生みました。長子を且莫車、次子を囊知牙斯といいます。
少女(妹)は大閼氏となり、四子を生みました。長子を雕陶莫皋、次子を且麋胥といい、二人とも且莫車より年上です。下の二人を咸と楽といい、どちらも囊知牙斯より年下です。
年齢順に並べると、彫陶莫皋(大閼氏)、且麋胥(大閼氏)、且莫車(顓渠閼氏)、嚢知牙斯(顓渠閼氏)、咸(大閼氏)、楽(大閼氏)となります。
成帝建始二年(前31年)、呼韓邪単于は死に臨んで雕陶莫皋を後継者に選び、将来、弟の且莫車に国を伝えるように約束させました。
呼韓邪単于の死後、雕陶莫皋が即位して復株累若鞮単于になります。
 
この年(成帝鴻嘉元年・前20年)、復株累単于が死に、弟の且麋胥(または「且糜胥」)が立ちました。これを搜諧若鞮単于といいます。
 
搜諧若鞮単于は子の左祝都韓王呴留斯侯(または「留斯侯」)を漢に送って入侍(入朝して仕えること)させ、弟の且莫車を左賢王にしました。
八年後の成帝元延元年(前12年)に捜諧単于が死に、やっと且莫車が即位します。これを車牙若鞮単于といいます。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代260 成帝(十八) 昌陵邑 前19年