西漢時代263 成帝(二十一) 王莽登場 前16年(1)

今回は西漢成帝永始元年です。三回に分けます。
 
西漢成帝永始元年
乙巳 前16
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月癸丑(二十二日)、太官の凌室(氷を貯蔵する部屋)で火災がありました。
戊午(二十七日)、戾后(史良娣。宣帝の祖母)陵園の南闕でも火災がありました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
成帝が趙倢伃(飛燕)を皇后に立てたいと欲しましたが、皇太后(王政君)が反対しました。趙飛燕の出身が賎しかったからです。
当時、皇太后の姉の子淳于長が侍中を勤めており、頻繁に東宮を往来して説得しました。
一年余してからついに皇太后の同意を得ます。
 
夏四月乙亥(十五日)、成帝はまず趙倢伃の父趙臨を成陽侯に封じました。『漢書外戚恩沢表』によると、諡号は節侯です。
 
諫大夫を勤める河間の人劉輔(『資治通鑑』胡三省注によると劉輔は宗室です)が上書しました「昔、武王や周公は天地に承順して、魚烏の瑞(白魚が武王の舟に入り、火が烏に変わるという瑞祥)を享受できましたが、それでも君臣ともに祗懼(懼れて恭敬なこと)し、顔色を変えて互いに戒め合いました(動色相戒)。季世(末世)において継嗣の福を蒙ることなく(後継者に恵まれず)、しばしば威怒の異(天譴。天変地異)を受けているのならなおさらです(なおさら祗懼して慎重にならなければなりません)。たとえ夙夜(朝晩)とも自責し、過ちを改めて行いを変え、天命を畏れ、祖業を念じ、有徳の世(家系)を妙選(精選)し、窈窕の女(心身とも美しい女性)を考卜(占って決めること。ここではよく考察して決定すること)し、そうすることで宗廟を受け継ぎ、神祇(「祇」も「神」の意味です)の心に順じ、天下の望みを満たしたとしても(天下を満足させたとしても。原文「塞天下望」)、子孫の祥(後継者ができる福)はまだ晚暮となる(晩くなる)恐れがあります(相応しい女性を精選したとしても、すぐに後継者ができるとは限りません)。それなのに、今は情に触れて欲に任せ(觸情縦欲)、卑賎の女に傾き、天下の母(皇后)にしようと欲し、天に対して畏れず、人に対して慚愧せず、これよりも大きな惑いはありません。里語(俗語)にこうあります『腐った木は柱にしてはならず、人婢(婢女)は人主にしてはならない(腐木不可以為柱,人婢不可以為主)。』天と人が賛成しない事には、必ず禍があって福はありません。市道(市の道を歩く人。または市の人や道を歩く人。民衆の意味です)は誰でもこれを知っているのに、朝廷には敢えて一言する者もいません。臣は秘かに心を痛めているので、死を尽くさないわけにはいきません。」
 
上書が提出されると、成帝は怒って侍御史を派遣し、劉輔を逮捕させました。劉輔は掖庭の秘獄に繋がれます。群臣で逮捕の理由を知る者はいませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、掖庭の詔獄(皇帝が管理する獄)には令、丞がおり、宦者(宦官)が担当しました。主に婦人や女官に関する案件を処理します。
 
左将軍辛慶忌、右将軍廉褒、光禄勳琅邪の人師丹、太中大夫谷永(四人とも中朝(内朝)の官です)がそろって上書しました「劉輔が以前、県令の身で謁見を求めて諫大夫に抜擢された事を見ると(『漢書蓋諸葛劉鄭孫毋将何伝(巻七十七)』の本文と注によると、劉輔は襄賁令として上書し、政事の得失を語りました。その結果、朝廷に召されて諫大夫になりました。襄賁は東海の県です)、その言が必ず卓越していて適切で(卓詭切至)、聖心(皇帝の心)にかなうところがあったから、抜擢されてその地位に至ったはずです。しかし旬月(一月未満)の間に逮捕されて秘獄に下されました。臣等の愚見によるなら、劉輔は幸いにも公族の親(親族の関係)のおかげで諫臣の列に居ることができましたが、最近、下土(地方)から来たばかりで、まだ朝廷の礼を知りません。ただ忌諱に触れただけなので、深過(重罪)とするには足りません。小罪なら隠忍(隠して我慢すること)するだけのことです。しかしもし大悪があるのなら、暴露して理官(法官)に治めさせ、衆とそれを共にするべきです(秘獄に入れるべきではありません)
今は、天心がまだ喜ばず(未豫)、災異がしばしば降り、水旱が交互に至っているので、まさに寛容の気風を盛んにして広く意見を問い(隆寬広問)、直言を褒めて下に言を尽きさせる(褒直尽下)時です。それなのに諫争の臣に対して惨急の誅(厳酷な刑)を行い、群下を震驚させて忠直の心を失わせています。もし劉輔が直言によって罪に坐したのではないとしても、坐した理由を明らかにしなければ、天下に戸曉(各家に知らせること)できません。同姓の近臣(劉輔)は元々、言によって顕貴を得ました。治親養忠の義(親族を管理して忠臣を養うという道理)において、掖庭獄に幽囚するのは誠に相応しくありません。公卿以下の者は陛下が劉輔を召して用いるのが急速だったのに、折傷(損傷。傷害)の暴(暴虐)を行うのを見たので、人には懼心(懼れる心)が生まれ、精力鋭気が削られて弱くなり(精鋭銷耎)、敢えて節を尽くして正言しようとしなくなりました。これでは有虞の聴(帝舜が諫言を聴いた美徳)を明らかにすることにも、徳美の風を広めることにもなりません。臣等は心中で深くこれを痛んでいます。陛下の留神(留意)省察(明察)を願います。」
成帝は劉輔を共工獄に遷して繋ぎ、死罪一等を免じて鬼薪の刑に処しました。
資治通鑑』胡三省注によると、「共工獄」の「共工」は「考工」を指し、少府の属官です。ここにも詔獄がありました。
鬼薪というのは宗廟のために薪を準備する苦役で、三年の刑です。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
太后(王政君)には八人の兄弟がいました。王鳳、王曼、王譚、王崇、王商、王立、王根、王逢時です。このうち王鳳と王崇は王政君と母が同じで、それ以外は異母弟になります。
長男の王鳳は父王禁を継いで陽平侯になりました。王崇は王政君の同母弟ということで、安成侯に封じられました(成帝建始元年32年参照)
王譚、王商、王立、王根、王逢時は同日に封侯されたため「五侯」と称されました(成帝河平二年27年)
独り王曼だけは早死したため、封侯されませんでした。
太后はこれを憐れんでいます。
 
王曼の寡婦(渠は名です。姓氏はわかりません)東宮(王太后が住んでいます)に仕えていました。
王曼の子王莽は幼くして孤児になったため、同輩の親族とは比べものにならない生活を送っています。
親族の兄弟(同世代の親族)は皆、将軍や五侯の子だったため、時勢に乗じて奢侈浪費し、輿馬(車馬)声色(音楽や女色)佚游(逸遊。遊蕩)において高低を競っています。
しかし王莽は貧困だったため、節を折って(人に対して腰を低くして)恭倹(恭謹謙虚)になり、勤身(身を削るように努力すること)して広く学びました。いつも儒生のような服装をしています。
母と寡嫂(亡き兄の妻)につかえ、兄の子を養い、行いは極めて慎重かつ周到でした。
資治通鑑』胡三省注によると、王莽の兄王永は早死し、王光という子が残されました。
 
王莽は外では英俊の士と交わり、内では諸父(伯父叔父)に仕え、腰が低くて礼意がありました。
大将軍王鳳が病に倒れた時、王莽は傍に仕えて看病し、自ら薬を試しました。髪が乱れて垢で顔が汚れても(乱首垢面)、数カ月も王鳳に侍ったまま衣帯を解くこともありません。
そのため、王鳳は死ぬ前に王太后と成帝に王莽を託しました。王莽は黄門郎に任命され、後に射声校尉に遷されます。
資治通鑑』胡三省注によると、黄門郎は黄門令に属します。日が暮れたら宮内に入って青瑣門を拝したため、別名を「夕郎」といいます。また、禁門は黄闥といいました。「闥」は「小門」の意味です。
 
久しくして、王莽の叔父に当たる成都王商が上書し、自分の戸邑を分けて王莽を封侯することを願い出ました。
長楽少府戴崇(『資治通鑑』胡三省注によると、戴氏は宋戴公の子孫です。または、宋が戴を滅ぼしてから、その子孫が国名を氏にしました)、侍中金渉、中郎陳湯等の当世の名士がそろって王莽のために進言したため、成帝は王莽を賢人とみなすようになります。王太后もしばしば王莽を助ける発言をしました。
 
五月乙未(初六日)、成帝が王莽を新都侯に封じ、騎都尉光禄大夫侍中に遷しました。
漢書帝紀は「成帝の舅(母の兄弟)王曼の子である侍中騎都尉光禄大夫王莽を新都侯に封じた」としていますが、この時の王莽は射声校尉で、封侯と共に侍中騎都尉光禄大夫になったはずです。
漢書王莽伝上(巻九十九上)』にも「永始元年(本年)、王莽を新都侯に封じた。国は南陽新野の都郷で、千五百戸である。騎都尉光禄大夫侍中に遷した」と書かれています。
 
王莽は宮内に仕えてからも慎重で、自分の行動を正しました。爵位がますます尊くなっても、節操はますます謙虚になります。
輿馬(車馬)や衣裘(衣服)を散じて賓客に施したため、家には余りがありません。
名士を家に収めて養い、多数の将大夫と交流しました。
そのため官位にいる者は更に王莽を推薦し、遊説の者は王莾のために談説し、虚誉(虚構の名誉名声)が広く盛んになって諸父(伯父叔父)を傾ける(圧倒する)ほどでした。
 
王莽は激発の行い(虚偽、不自然な事)を敢えて為しても平然として恥じることがありませんでした。
ある時、王莽が秘かに侍婢を買って家に入れました。
兄弟(同世代の親族)の中でそれを聞いた者が現れると、王莽は弁解してこう言いました「後将軍朱子(朱博。子元は字です)には子がいません。莽(私)はこの児(婢女)が宜子(子を生む能力がある女性)に属すと聞きました(此児種宜子)。」
即日、王莽は婢女を朱博に贈りました。
王莽が実情を隠して名声を求める様子はこのようでした。
 
資治通鑑』胡三省注は「王莽の事がここから始まる」と書いています。
将来、この王莽が西漢から政権を奪って新王朝を開きます。
 
 
 
次回に続きます。