西漢時代264 成帝(二十二) 昌陵廃止 前16年(2)

今回は西漢成帝永始元年の続きです。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月丙寅(初七日)、趙氏(飛燕)を皇后に立てて、天下に大赦しました。
 
趙飛燕は皇后に立てられてから寵愛が少し衰えました。妹(『飛燕外伝』では趙合徳)が最も寵幸を得て昭儀に立てられます。
趙昭儀は昭陽舍に住むことになりました。その中庭は全て彤朱(赤色)で飾られ、殿上は漆が塗られました(原文「殿上髹漆」。『資治通鑑』胡三省注によると、「髹」は赤黒い漆です)。切(門限。門の下に置かれた横木)は全て銅が被せられ、銅の上に黄金が塗られています。階(階段)は白玉で造られており、壁帯(壁の横木)には所々に黄金の釭(円形の装飾物)がつけられ、その中に藍田の璧や明珠、翠羽を置いて部屋を飾っています。後宮ができてから今まで、このように華美だったことはありません。
 
趙皇后は別館に住み、侍郎や宮奴で子が多い者と頻繁に通じました。成帝との間に子ができなかったからです。
資治通鑑』胡三省注によると、侍郎は郎の中で禁中を出入りできる者です。宮奴は罪を犯して奴隷になった者で、宮中に仕えました。
 
趙昭儀が成帝に言いました「妾(私)の姉は性が剛(剛直)なので、もしも人に陥れられたら(為人構陷)、趙氏の種(子孫)がなくなってしまうでしょう。」
趙昭儀は涙を流して悲痛な様子を見せます。
成帝はこれを信じたため、趙皇后が姦淫していることを報告する者がいても、全て殺してしまいました。
この後、趙皇后が公に姦淫を行っても、誰も何も言わなくなりました。
しかしそれでも子はできませんでした。
 
光禄大夫劉向は、王教(王の教え。王化。教化)とは内から外へ及び、近い者から始めるものだと考えたため、『詩』『書』に記載されている賢妃や貞婦が国を興して家を顕貴にした前例や、孽(妾)(寵妃)が国家を乱して滅ぼした前例を集めて記録しました。それらを編集して『列女伝』全八篇にします。
また、士人や諸子の伝記、行事に関する記述を集めて『新序』『説苑』全五十篇を作りました。
これらが完成すると、成帝に上奏しました。
 
この他にも、劉向はしばしば政事の得失について上書し、法戒(習うべきことや戒めるべきこと)を述べました。
上書は数十以上になり、観察を助けたり遺漏を補いました(原文「以助観覧,補遺闕」。成帝の政治に対する観察を助けて遺漏を補ったという意味だと思います。上書によって『列女伝』『新序』『説苑』の閲覧を助けて遺漏を補ったという意味もあるかもしれません)
成帝は劉向の意見全てを用いることはできませんでしたが、心中ではその言を嘉しており、いつも感嘆しました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
昌陵(成帝陵)の工程は過度に奢侈だったため、久しく完成できずにいました(昌陵は成帝鴻嘉元年20年に建設が始まりました)
そこで劉向が上書しました「臣が聞くに、王者は必ず三統(天人の関係)に通じており、天命を授かる者は多く、一姓だけではないことに明白である(理解している)といいます。古から今に至るまで、亡びなかった国はありません。孝文皇帝はかつて石槨の固(石で造った棺の堅固な姿)を称賛しましたが、張釋之がこう言いました『その中に欲するべき物を存在させたら(棺の中に人が欲しがるような物を副葬したら)、南山を金属で固めても(錮南山)まだ隙があります。』死者には終極(終わり)がありませんが、国家には廃興があります。だから張釋之の言は無窮の計といえるのです(文帝前三年177年参照)。孝文は(誤りを)悟ったため、薄葬を行いました。
棺槨(棺)を作るのは、黄帝から始まりました。黄帝、堯、舜、禹、湯、文、武、周公の丘壠(冢墳。墳墓)は全て小さく、葬具は非常にわずかでした。彼等の賢臣孝子も承命順意して(命を受け入れ意思に従って)薄葬しました。これは誠に君父を奉安(安葬)する、忠孝の至(極み)です。孔子は母を防(魯の地名)に埋葬し、墳の高さは四尺でした(墳は土を盛った部分です。『資治通鑑』胡三省注によると、天子の墳は高さ三仞で、松を植えました。諸侯はその半分で、柏を植えました。大夫は八尺で、薬草を植えました。士は四尺で、槐を植えました。庶人には墳がなく、楊柳を植えました。孔子は士の礼を用いました)。延陵季子はその子を埋葬し、墳を造って墓穴を埋めましたが(封墳掩坎)、その高さは隠せる程度でした(原文「其高可隠」。『漢書楚元王伝(巻三十六)』の注を見ると、孟康は「墳が隠れていた」と解説し、臣瓉は「人が立ったら肘が隠れる程度の高さだった」と解説しています。顔師古は「臣瓉の説が正しい」としています)。だから仲尼孔子は孝子、延陵は慈父、舜禹は忠臣、周公(武王の弟)は弟弟(弟として弟の道理を行う事)とされており、彼等の君親、骨肉に対する埋葬は全て微薄だったのです。目先の倹約を行ったのではなく、誠に体(体制。制度。礼)に従っていたのです(便於体也)
始皇帝は驪山の阿に埋葬されました。下は三泉を塞ぎ(錮三泉)、上は山墳を高くし、水銀で江海を造り、黄金で鳧雁を作り、珍宝の臧(収蔵)、機械の変(巧妙な仕掛け)、棺椁の麗、宮館の盛は再現できないほどです(不可勝原)。しかし天下がその役(労役)に苦しんで反し、驪山の工程がまだ完成する前に、周章の百万の師がその下に至りました。項籍項羽が宮室営宇を焼き、後に牧児が火を持って見失った羊を照らして求めた時、失火してその臧椁(棺)を焼いてしまいました。古から今にいたるまで、始皇のように埋葬が盛大だった者はいないのに、数年の間に外は項籍の災を被り、内は牧豎の禍に遭いました。哀しいことではありませんか(豈不哀哉)
このようであるので、徳がより厚い者は葬がより薄く、知がより深い者は葬がより微小になります(徳彌厚者葬彌薄,知愈深者葬愈微)。徳がなく知が少なければ、その葬はより厚くなります。丘壠がより高く、宮闕が甚だ華麗なら、発掘されるのが必ず速くなります。このように観ると、明暗の效(目立つ埋葬と隠した埋葬の効果)や葬の吉凶は、昭然と(明らかに)知ることができます。
陛下は即位してからその身をもって節倹し(躬親節倹)、始めて初陵を経営した時も、その制(規模)が約小(簡約されて小規模)だったので、天下で賢明を称賛しない者はいませんでした。しかし後に昌陵に遷すと、低地を盛って高くし(増庳為高)、土を積んで山とし、民の墳墓を掘り起こしてその累計は万を数え、邑居を建設して期日を緊迫させ、功費(工費。費用)は大万百余(「大万」は「巨万」または「億」の意味です)に上り、死者が下で恨み、生者が上で愁いています。臣は甚だこれを憐憫憂愁します(臣甚惽焉)。死者に知覚があるとするなら、人の墓を掘り起こしたら、その害が多くなります。もし知覚がないのなら、どうして(墳墓を)大きくするする必要があるのでしょう。このこと(昌陵建設)を賢知の者と謀ったら皆喜ばず、衆庶に示したら皆これを苦とします。もし愚夫淫侈(奢侈)の人を喜ばせたいだけのことなら、どうしてそうする必要があるでしょう。陛下が上は明聖の制を閲覧して準則とし、下は亡秦の禍を観察して戒めとすることを願います。初陵の規模は公卿大臣の議に従い、衆庶を休めるべきです。」
成帝はこの進言に心を動かされました。
 
以前、将作大匠解万年が責任を持って「昌陵は三年で完成できる」と言いましたが、結局完成できませんでした。
群臣の多くが陵墓建設の不便を訴えたため、成帝が有司(官員)に議論させました。
漢書雋疏于薛平彭伝(巻七十一)』によると、「王太后の姉の子に当たる衛尉淳于長が昌陵建設に反対したため、成帝が有司に議論させた」と書いています。但し、『漢書百官公卿表下』によると淳于長が衛尉になるのは成帝永始四年(前十三年)のことなので、この時は「侍中」のはずです。
 
群臣は皆こう言いました「昌陵は卑(低地)を高くしており、計るに便房(陵墓内の一室で、死者の霊が休憩する場所。または祭祀に来た親族が休む場所)はまだ平地の上にあります(元の土地が低いので、いくら高くしても便房はまだ平地の高さにあります)。また、客土(他の土地から運んだ土)の中では、幽冥の霊を保てず(安定させることができず)、浅い外は堅固になりません(原文「浅外不固」。恐らく外壁が薄かったら堅固にならないため、他の土地から大量な土を運ばなければならないという意味です)。卒(士卒)(役徒)(工匠)の庸(賃金)は鉅万(巨万)を数え、しかも然脂(燃脂。油に火を灯すこと)して夜も作業し、東山から土を運び、(貴重な土は)穀物とほぼ同価になっており、建設は数年に及び、天下があまねくその労を被っています。故陵(旧陵。延陵)は天性(天然の条件)に則って真土(その土地の土)を利用でき、地勢は高敞(高くて広いこと)で、祖考(祖先)が傍近くにあり(『資治通鑑』胡三省注によると、延陵の近くには渭陵元帝陵)があり、西には茂陵武帝陵)がありました)、これ以前に既に十年の功緒(成果)があります。故陵に戻って建設を再開し、民を遷さないことが便(利)となります。」
 
秋七月、成帝が詔を発しました「朕は徳を執っても固められず(徳を堅持できず)、謀っても群下に言を尽きさせることができず(執徳不固,謀不尽下)、誤って将作大匠解万年の『昌陵は三年で完成できる』という言を聴いてしまった。しかし建設して五年になるのに、中陵や司馬殿門内(『資治通鑑』胡三省注によると、「中陵」は陵中の正寝です。「司馬殿門」は門の名、もしくは陵上の「寝殿と司馬門」という意味です)もまだ功を加えていない(成果がない。完成していない)。天下を虚耗させて百姓が罷労疲労している。客土は疎悪なので(遠くに分散していて質も悪いので)、ついに完成することはできず、朕はこの難を思い、怛然(憂愁)傷心している。過ちを犯して改めないことを本当の過ちというものだ(原文「過而不改,是謂過矣」。『論語』の言葉です)。よって昌陵を廃止する。故陵に及んでは、吏民を遷すことはない(陵邑を築かない)。天下に動揺の心を持たせないようにする。」
 
 
 
次回に続きます。